中山道ばかりか江戸の五街道の中でも、もっとも昔の姿をとどめるのが木曽路です。緑深い山間の街道筋に軒を連ねる家々、人里離れた路傍には風雨で傷んだままの石仏や道祖神、里も野も潤いに満ちて詩情豊か、かつては旅人泣かせの二つの峠越えも今では爽快なトレッキングコースになっています。

木曽路の旅、第3回目は、藪原宿〜宮ノ越宿〜福島宿〜上松宿〜須原宿〜野尻宿〜三留野宿の7つの宿を繋ぐ旅。
11宿のうち、ほとんどの宿場では火災や水害により昔の町並みを失っています。それでも伝統工芸の継承、主要建物の復元、須原宿の水舟や野尻宿の七曲りなど古くからの技や景観を守り、各所に木曽らしい素朴で潤いに満ちた趣をかもしています。

お六櫛の産地、藪原宿

藪原宿は京から来る旅人にとっては峠越えに備える大事な泊まり場でした。藪原では旅人相手の仕事に従事する人もいましたが、それ以上にお六櫛の製造に関わる人が多く、“お六櫛の里”として知られています。お六櫛は昔、妻籠宿にいたお六という娘が頭痛に苦しんでいるとき、御嶽権現のお告げがあってミネバリで櫛をつくって髪を梳いたら治ったとか。以来、ミネバリの櫛は妻籠の名産になりましたが原木が少なくなって衰退し、代わって原木に恵まれた藪原が主産地になりました。今では従事する人は少なくなりましたが、この地の伝統産業として名人たちが腕を振るっています。ミネバリはカバノキ科の落葉高木で寒冷地に多く、斧が負けてしまうほど材が固いことから“斧折れ”ともいわれます。

藪原宿中心部の家並み
地酒「木曽路」の醸造元湯川酒造。創業は300年以上前
山六篠原商店・蔵シックアート

宿場は木曽川左岸に開け、ここでようやく鳥居峠からの長い急坂が終わり道は平坦になります。宿場の北の外れに和宮も宿泊した本陣跡があり、町並みはそこから南へ700mほど。街道をはさんで昔ながらのお六櫛の店が点在し、もとの旅籠や造り酒屋、漆器店などの古い建物が軒を連ね旧街道らしい趣を伝えています。宿場の中ほどに見られる石垣は、1695年(元禄8)の大火後にできた防火壁で、そのために各家1間につき1寸を供出して設置スペースを確保したといわれます。南の外れには高札場跡の説明板があり、そこから道なりに行くと一里塚跡で、ここは江戸からおよそ66里、京へは70里のところ、その後ろにはD51型蒸気機関車が展示されています。

左の建物が湯川酒造
D51型蒸気機関車

木曽義仲ゆかりの宮ノ越宿

次の宮ノ越宿までは約7㎞、宿場周辺には木曽義仲ゆかりの史跡が多く、北には義仲の愛妾巴にちなむ伝説が残る木曽川の巴淵、義仲の居館跡や平家打倒の兵を挙げたところとされる旗挙八幡宮があります。宿場の町並みは駅付近の寺橋から南西に500mほど、昔は伊那谷に通じる権兵衛街道との分岐点だったこともあり多くの旅人が行き交いました。

宮ノ越宿南の外れから望む町並み。直進を阻むように道を曲げて通している
随所に木曽大工の技が発揮された田中家住宅

宿場の様子は1960年代の道路拡張でだいぶ変わってしまいましたが、ここは木曽大工の出身地、それだけに今でも町の一画に彼らの精緻な技を駆使した古い民家建築を見ることができます。木曽大工は棟梁はじめ数人の弟子と山林を伐り出す杣人そまびとを加えて一団になり、信州一円ばかりか遠くは江戸や名古屋にまで出向きました。現在、松本周辺に残る国重文の民家建築のほとんどは彼らの手によります。

原野駅付近より南に向かう中山道

JR宮ノ越駅の西、木曽川右岸には義仲一族の菩提寺徳音寺があります。山門は江戸中期の木曽大工による作で、装飾を排して質実簡素ながら重厚な造りになっています。その南にある義仲館は居館を模して建てられた資料館で、関連の古文書や絵巻などを収集展示しています。宿場の町並みは左岸に開かれ、復元された本陣跡の建物のほか数棟の古民家が残るばかりですが、街道筋に残る水車や古井戸、道祖神に昔の姿を偲ぶことができます。

義仲館。敷地内には源氏の白旗が翻る

宿場を過ぎて中山道を南西に向かうと山裾がだいぶ遠くなり、木曽路ではあまり見られないのどかな田園風景が広がります。田圃の脇にぽつんとたたずむ宮ノ越一里塚跡を過ぎて、さらに南西へ2㎞ほどで原野の集落になります。何軒かの出梁造りの古民家を見ながら静まり返った家並みを抜け、JR原野駅の先500mほどのところが中山道の中間点になります。道端に案内板がなければ気づかないほど背の低い石碑がひっそりと立ち、ここが江戸からも京からも67里28丁、約266㎞、周囲には民家が点在しまばらに耕作地が広がり、南東の空には木曽駒ケ岳の雄姿が浮かびます。

宿を過ぎると田園風景が広がる

木曽11宿の要、関所と代官所がおかれた福島宿

木曽川左岸に開けた木曽福島は古くから木曽谷の政治経済の中心地で、宿場の東の入り口には天下の四大関所の一つ福島関所がおかれ、厳しく“入り鉄砲、出女”の改めが行われました。関所の立地や厳しい改めの様子は島崎藤村の『夜明け前』にも語られています。今、関所跡は史跡公園として整備され、かつての関所の姿にならって福島関所資料館や関所門が復元され、資料館では手形や証文、古文書のほか、首枷や手枷、火縄銃なども展示しています。

関所跡に隣接する高瀬家は代々関所番を務めた家で、藤村の姉の嫁ぎ先でもあります。江戸時代の土蔵に当家や藤村関連の資料を所蔵し、庭園とともに公開しています。

福島関所跡
史実に基づいて整備された関所建物。内部は上番所、下番所、勝手からなる

福島の町並みは1927年(昭和2)の大火で大半が失われ、この先たどる旧道沿いは今風の商店街になっていますが、本町まで来て90度左折すると古い家並みが現れます。この一角が焼失を免れた上の段地区で、道は広くなく脇道のように見えますがこれが昔の中山道です。

道は桝形になっていて、曲がったすぐ先でまたほぼ90度右折すると高札場跡で水場があり、さらにそこを90度左折すると、千本格子に袖そで卯う建だつや下部をなまこ壁にした白壁土蔵造りの商家が軒を連ね一気に江戸の昔に誘います。どの家も火災に備え沢水を引いた水槽を備え、そこから勢いよく水があふれだして町並みにいっそうの趣を添えています。

潤いに満ちた町並み。古い建物は店舗などに活用されている

その先で道は再び桝形になって左折、少し降りになって右折し左手に釣瓶の古井戸や古民家を見ながらさらに降って八沢川を渡ると、中山道は商店街に入り木曽福島駅にいたります。

街道を外れた木曽川右岸には木曽氏や山村氏の菩提寺で、枯山水や池泉観賞式の庭で知られる興禅寺があります。枯山水は現代の巨匠重森三しげもりみ玲れい、池泉式は江戸中期金森かなもり宗和そうわの作庭で、趣の異なる佇まいが訪れる人を和ませています。

興禅寺石庭

境内の一隅には、木曽義仲の遺髪を納めた墓があります。その下流600mほどの大手橋の山側に山村代官屋敷があります。山村氏は関ヶ原の戦いで活躍し、徳川氏の天下掌握後は旗本待遇を受けて幕末まで関守と木曽代官としてこの一帯を治めていました。今残るのは下屋敷の一部ですが、ヒノキの木立の奥に立つ屋敷は武具や生活用具、古文書を展示する資料館として公開され、木曽駒ケ岳を借景にした築山泉水式の庭も楽しめます。

この先西へ向かう旅人たちは、厳しい関所を無事通過できてひと安心、やれやれという思いで次の上松宿を目指したことでしょう。

木曾川縁の崖家造り。崖から川側にはみ出した家屋部分を石材や木材で支える建物で、川側からは3階建て通り側からは2階建てに見える。ここではよく目にする家のつくり

宿場の賑わいを外れた先に残る石畳の小径、上松宿

木曽11宿のちょうど真ん中に位置するのが上松(あげまつ)宿で福島宿からおよそ10㎞、途中、御嶽山東の遥拝所のある神戸(ごうど)の集落を過ぎ、そのまま木曽川左岸を進むと木曽棧(かけはし)跡にいたります。棧とは険しい断崖に板や丸太などを渡しただけの架設の通路で、昔の旅人は激流を眼下に蔦(かづら)にすがりながら命がけの往来を余儀なくされました。

上松宿上町地区<

江戸初期にこの棧が通行人の落とした松明で焼けてしまったため、川べりから石垣を積み上げて新たに100mほどの通路ができて危険は解消されました。現在、対岸から残された石垣の一部を見ることができ、芭蕉がここで「棧や命をからむ蔦(かづら)」と詠んだ句碑が立てられています。

難所をやり過ごした先の上松宿は、旅籠の数も江戸末期の人口も木曽11宿では最多で、木曽ヒノキなどの集散地として奉行所が置かれ大いに賑わいました。しかしたびたびの大火で宿場のほとんどを失い上町地区に100mほど古い家並みを残すばかりでしたが、それも最近では建替えなどにより消えつつあります。上松駅前を過ぎ旧道を30 分ほど歩くと寝覚ねざめの集落で、臨川寺への脇道をはさんで2軒の古い建物が向かい合って建っています。

の間の道を降りていくと臨川寺

北側の建物は大名などが休憩に利用したもと茶屋本陣で、上段の間などが当時のまま残されています。向かいは『續膝栗毛』などにも登場した名物そば屋の建物で、今でも場所を替えて営業しています。

この間の道を降り国道をわたると臨川寺で、境内からは浦島太郎伝説の寝覚ノ床をすぐ眼下に望むことができます。寝覚ノ床は木曽路を代表する名勝で、花崗岩の川床を流れが浸食して約1.5㎞にわたり造形したかのような渓谷美が続きます。とりわけ晴天下では連続する白い岩肌と青磁をおびた水面とのコントラストがあざやかで、訪れる人を壮大な大自然のアートの世界に誘います。

境内から望む寝覚の床

旧茶屋本陣まで戻ってしばらく南にたどると石畳の小径になります。道は10mほど下って左折し、さらに斜面を横切りながら50mほど続いて滑川沿いの車道に降り立ちます。石畳が残るのはわずかですが、旧街道の貴重な遺構として地元の関心も高く、行政と一体となっての保存活動も行われています。

上松の外れ、滑川への降り口に残る石畳

須原宿と三留野宿との間は木曽の棧よりも危険

次の須原宿は大桑村の主要集落の一つで上松の中心から13㎞ほど先、以前はもっと木曽川べりにありましたが、たびたび洪水に見舞われ現在のところに移ってきました。ここは山から引いた水が街道筋を潤す水舟の宿場町、水舟はサワラの丸太を刳り抜いて貯水槽にしたもので、常時勢いよく水をあふれさせて旅人を癒し、里人の暮らしを支えています。

須原宿。右隅の家ではサワラをくり抜いた水槽に水を引いている
脇本陣西尾家。江戸時代創業の造り酒屋で現在も「木曽のかけはし」の製造元[/report_img

宿場を西の外れまで来ると桝形になり、道は90度右に曲がって鍵屋の坂を降り、その先で左折してさらに西に向かいます。桝形の先には木曽氏11代親ちか豊とよ創建の定勝寺(じょうしょうじ)があり、桃山様式の豪壮な本堂や庫裏、山門が国の重文に、寺宝として木曽義仲像などを所蔵し、静まりかえった境内には鶴亀の庭園が広がります。

[report_img image_url="/wordpress/wp-content/uploads/2022/04/e548b6c527f8fc2f77bf8daf72b9221e.jpg"]須原宿西外れの桝型、鍵屋の坂。昔の道はここで右折して坂を降りていった

須原宿定勝寺山門

大桑村のもう一つの主要集落野尻宿は明治半ばの大火で町並みの大半は失われ、今は本陣跡の標識や案内板が立つだけで古い建物はほとんど残っていません。この宿場の特徴は敵の侵入に備えた“七曲り”といわれる曲がりくねった道筋で、建物こそ新しくなっていますが町並みは今も変わらず、曲がりを繰り返して見通し悪くかつての姿を伝えています。

野尻宿の特徴は桝形が随所に設けられた「七曲り」といわれる町並み
江戸期には旅籠や茶屋30余軒を数えた野尻宿

ここから次の三留野(みどの)宿まで約10㎞、この間も大変な難路で貝原益軒は『きそ路の記』で「野尻と三留野との間は特に道悪く、数十間もの高い崖を行くその下は木曽川の深い流れで木曽の棧よりも危ない」とその様子を語っています。そのため木曽川が暴れるときなどは、南東から流れて野尻宿近くで木曽川に注ぐ二反田川を遡り、根の上峠(850m)を越えて与川沿いに南西に降って三留野宿にいたる山回りルートがバイパスとして利用されました。今この与川道も歴史の道として整備され、手頃なハイキンギグコースになっています。

三留野宿もたびたびの火災にあって宿場としての体裁をなしていない時期もあり、1802年(享和2)にこの地を通った大田南畝なんぼは、旅行記にただ「わびしき所なり」とだけ記しています。今でも国道が少し離れて通るためひっそりとしていて、いくつか残る古い民家が昔を偲ばせるばかりです。この先、道はJR中央西線南木曽なぎそ駅を過ぎ、なだらかな道を南にたどり渡島集落の先で西流する木曽川と別れて南の山中に分け入ります。その分岐点には戦国期に木曽氏が領有した妻籠城跡があり、木曽谷南部の防衛拠点になっていました。標高521mの小丘に築かれた山城で、頂上の本丸跡からは妻籠の家並みを一望にできます。

*信濃路古道紀行 中山道・木曽路 その1 木曽路の入り口から奈良井宿へ

*信濃路古道紀行 中山道・木曽路 その2 奈良井宿から鳥居峠越え

*信濃路古道紀行 中山道・木曽路 その4 妻籠宿から馬籠宿