このシリーズは、安土桃山から江戸時代を生きた武将たちで、かつ茶人としても印象的な足跡を残している人物の縁(ゆかり)を訪ねるシリーズです。武将として名を馳せた人物たちが、利休の確立した佗茶の世界に、なぜこれほどまでに魅了されたのか、この素朴な疑問の手掛かりを求める旅でもあります。
今回、質素倹約を旨とした「寛政の改革」を推進した老中・松平定信のゆかりを求めて福島県白河市の南湖公園を訪ねました。

福島県立博物館蔵

白河藩主時代は、名君として名を馳せる

松平定信(1758年〜1829年)は、8代将軍 徳川吉宗の孫にあたる田安家出身で、徳川御三卿(注)に属していました。 幼少期から儒学・書道・和歌など学問・教養を身に付け、優れた才覚があったと言われ、1774年(安永3年)、17歳のときに、白河藩主、松平定邦から養子に迎えられ、白河藩主としての立場を得ることになります。 

定信は、この白河藩主時代から文化・学問への関心が高かったようで、藩政の確立に心血を注ぐと同時に、文化振興にも熱心で、藩校「立教館」を設立して学問や教養活動を推進、特に定信の生涯の友となる茶の湯に力を注ぎました。

定信の白河藩主在任中に、天明の大飢饉(天明2年~8年)に見舞われましたが、定信は、農村復興・救済・年貢納入緩和などに取り組み、白河藩では一人も餓死者を出さなかったと言われ、これが定信の名声を一挙に高める結果となりました。 

(注)徳川御三卿:江戸幕府で将軍の継嗣を補佐するために作られた「田安徳川家」「一橋徳川家」「清水徳川家」の三つの徳川家のこと。将軍家の直轄領の一部を所領とし、御三家と異なり大名家ではないが、将軍に跡継ぎがいない場合に将軍家を相続できる立場にあった。

老中首座として様々な改革を推し進める

当時、幕府政治では 老中、田沼意次の重商主義・利権政治が批判されており、改革を期待する流れが生まれ、結局、意次は1786年(天明6年)に失脚することになります。

そこで、意次の後継として白羽の矢が立ったのが、名君として名を馳せていた定信で、将軍の孫としての背景もあり、翌1787年(天明7年)新将軍、徳川家斉の治世で定信は老中首座に迎えられました。28歳という若さでした。

老中首座に就任した後、定信が推し進めた改革は「質素倹約」「財政再建」「農村復興」「風紀の引き締め」などを柱としており、これは「寛政の改革」とも言われ、それまでの重商主義的な田沼意次とは真逆とも言える施策を進めました。しかし、これは庶民、町人衆、武家衆など階層問わず人々に息苦しさや負担を引き起こすことになり、結局人々の支持を失う要因となりました。

「世の中に蚊ほどうるさき物はなし、ブンブブンブ(文武文武)と夜も寝られず」という当時流行った狂歌が、当時の定信への庶民の心をよく表しています。

さらに定信退任の背景には、幕府・将軍家と朝廷との間の政治的な事件や緊張もあったとされます。具体的には、光格天皇が実父・閑院宮典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈ることを定信が反対した、いわゆる「尊号事件」などで、これらが定信の立場を弱めたとされています。

結局、定信は1793年(寛政5年)に老中職を解かれ、白河に戻ることになります。

老中退任後の白河で茶の湯を深化

老中として江戸に出向く前から文化活動に熱心だった定信だが、老中退任後、時間的な余裕ができたこともあって白河藩主として、さらに文化活動に力を入れ、とりわけ、茶の湯に熱心で、数多くの茶書の執筆など定信の茶の湯はこの時期に花開いたとも言えます。

定信の茶の湯は、同じく江戸初期の武将茶人・小堀遠州が興した「遠州流」を元にしながら、利休の侘び茶の心に回帰するかたちで、自らの美意識と政治的な倫理観を融合させた独自の茶風を形成しており、茶の湯を単なる趣味や社交手段としてではなく、精神修養と政治哲学の実践の場と捉えていたことがうかがえます。

定信の代表的な著書に、『茶道訓』、『茶道掟』、『老の波』、『楽亭茶話』などがあります。これを読み解くのはなかなか難しいですが、ここには、定信の精神性と美意識が具体的に著されており、茶の湯を通じた人間形成を説く内容となっていることが感じられます。

「わが茶は、道を示すにありて、飾るに非ず」

これは、後世の人々の、定信の茶風への標語とされているものです。

定信の精神性が体現された南湖公園

定信の精神性が体現された象徴的なものとして、今回訪ねた南湖公園があります。これは定信が造成した公園で、士民共楽(しみんきょうらく)の理念に基づき、身分を問わず誰もが文化と自然に触れ合える場を提供するという当時としては画期的なものでした。

この南湖公園内には茶亭「共楽亭(きょうらくてい)」や「蘿月庵(らげつあん)」などの茶室が整えられ、これは現在人々に公開されており、定信の茶風と心を体現する場として、今でも白河市によって大切に保存されています。

この定信の茶の湯は、後世には「家流(おいえりゅう)」と呼ばれ、地元の人々はこの定信の茶の湯を大切にし、定信が説いた茶の湯の心は今に受け継がれています。

《取材雑感》

定信ゆかりの南湖公園は、東京から東北新幹線とJRバスを使って1時間半程度。訪ねた日は平日ということもあってか人影もまばら、想像以上の静けさだ。この南湖の静かな佇まいが、定信の深い精神性を感じさせる。

南湖の湖畔をゆっくり散策し、定信が建てた茶室・享楽亭を訪ねる。公開日ではなく外廻りだけの見学になったが、その質素な佇まい、南湖を見渡せる場所に建つなど、ここでも定信の心を感じることができた。

そして南湖公園の中心地、池泉回遊式の日本庭園と、そのほとりにある書院造の「松楽亭」へ。松楽亭では、抹茶と茶菓子をいただけるということで楽しみに向かう。日本庭園はここでも定信の心を感じさせる静謐な佇まい、松楽亭も無駄を省いた瀟洒な造り、その場にいるだけで精神的な落ち着きを感じる。

松楽亭の中へ入ると日本庭園に面して茶室がある。この日は私一人だけだったので、この和室に座って庭園を眺めているだけで心の安寧を感じる。そして、定信も居たであろうこの場所で、定信の心を感じながらゆっくりとお薄と季節の和菓子をいただく。なんとも幸せなひとときだった。

(小野里保徳)

遠く那須連峰を望む南湖。静かな佇まいを見せる
享楽亭。定信が建てた南湖を見渡せる茶室
享楽亭
日本庭園のほとりに瀟洒な姿を見せる翠楽苑亭
池泉回遊式の日本庭園
松風亭羅月庵。日本庭園を眺めながら茶を楽しむことができる
白河市内の老舗和菓子店の和菓子と薄茶をいただく
定信ゆかりの茶室「松風亭羅月庵」


<南湖公園>

南湖という名称は、唐の詩人・李白の詩「南湖秋水夜煙無」からと、小峰城の南側に位置していたことに由来するといわれています。また、行楽だけでなく、湖水は灌漑用水、水練・操船訓練として利用され、造成工事は領民の救済事業としての性格も持っていました。湖水面積は17.7ヘクタール、周囲は約2kmあり、那須連峰や関山を借景に、松、奈良吉野の桜、京都嵐山の楓が植えられ、四季折々の景色を楽しめます。
〒961-0812 福島県白河市南湖

<共楽亭>
定信が、南湖を見渡せる眺めの良い場所に建てた茶室。鴨居や敷居をなくした間取りに「士民共楽」の理念が反映されています。
定信自身もここで、庶民と共に茶を楽しんだと伝えられています。白河市指定の重要文化財

<翠楽苑>
定信の庭園理念が引き継がれた池泉回遊式日本庭園。書院造の「松楽亭」では、庭園を眺めながら呈茶(抹茶と生菓子)が楽しめるほか、貸切利用も可能です。

<松風亭羅月庵>
南湖神社の境内には、定信ゆかりの茶室「松風亭羅月庵」があります。
福島県県指定の重要文化財(内部は通常非公開)

<南湖神社>
大正11年(1922)、近代日本経済の父・渋沢栄一の多大なる援助のもとに創建されました。
松平定信を祀る神社で、定信が学問・文化芸術に秀でていたこと、男女の縁を多く取り持っていたことから「学業成就・縁結びの神」としても有名です。春には、定信が植えたと伝えられる樹齢200年以上の御神木「楽翁桜」が見事に咲き誇ります。