天下統一を果たした徳川家康が取り組んだのは、幕府の権威にふさわしい壮大な居城の建設でした。天下普請による築城、天守の焼失……、そうした江戸城にまつわる数々の出来事を学ぶため、江戸東京博物館・学芸員の杉山哲司さんにお聞きしました。

家康が築いた日本最大の城「江戸城」は、総構えの周囲が約16km

関ヶ原の戦いに勝利し、征夷大将軍となった徳川家康が、本格的な江戸城改修に取りかかったのは慶長8(1603)年のことでした。そもそも戦国時代の江戸城は、太田道灌が康正3(1457)年に築いたもので、家康が天正18(1590)年に入城した当時は、規模が小さく、貧弱な城だったようで目の前には、日比谷入江と呼ばれる浅瀬が江戸湾から入り込んでいました。

家康が新たに築き始めた江戸城は、隅田川と江戸湾と外堀に囲まれた総構えの周囲が四里(約16km)にも及ぶもの。その城つくりにはどんな意味が込められていたのか? 江戸東京博物館で学芸員を務める杉山哲司さんにお話をうかがいました。

「ひと言で言えば、江戸城はそれまでのどんな城とも比較にならない大きさでした。城は目に見えるものだけに、幕府の権威を固めていく上では非常に重要なもの。また、諸国の大名を集めて土木工事を行う天下普請は、徳川家の威信を天下にはっきり示すという点でも大きな意味を持っていました」

江戸城に最初の大天守が完成するのは慶長11(1606)年。しかし、工事はそこで終わらず、寛永年間まで30年以上も続きました。

「当時の天守は、家康から秀忠、家光へと将軍が代替わりするたびに建て替えられ、少しずつ大きくなっていきました。そこには幕府の力が先代のときより、さらに強固なものになっていくことを誇示したい気持ちがあったのではないでしょうか」

寛永15(1638)年、三代将軍・家光の時代に完成した5層6階の寛永天守は地上からの高さが59m。現代の20階建てのビルに相当するサイズだったと伝えられています。

慶安元(1648)年に制作された狩野尚信の『武州州学十二景図巻 金城初日(部分/江戸東京博物館蔵)』
江戸東京博物館に展示されている精巧な本丸の模型。左側が大広間へ続く松の廊下、右側が白書院。

天守より江戸の復興が重要と将軍に進言した保科正之

寛永天守の完成から19年後の明暦3(1657)年、江戸市中の大半を焼き尽くす大火災、明暦の大火が発生します。このときの死者は推定で3万人から10万人。江戸城も大きな被害を受け、西の丸を除くほぼ全域が焼失してしまいます。

この後、江戸城は再建されていくのですが、天守に関しては、三代将軍・家光の異母弟で、当時の四代将軍・家綱を補佐していた会津藩主・保科正之が反対します。

保科正之はこれまで天守が戦いで役に立ったことはなく、ただ世間を観望するのに便利という代物で、そのようなものの再建に人力と財力を使うよりは、江戸市街の復旧に力を入れるべきだと将軍に進言。天守再建は見送られることになります。

「正徳2(1712)年には、幕政改革を進めた新井白石によって天守の再建計画が進められましたが、七代将軍・家継の死や白石の失脚とともにその計画も頓挫します。その後は幕府の財政難もあり、天守再建が検討されることはなかったようですね」

明暦の大火から慶応3(1867)年の大政奉還にいたるまで、200年以上にもわたって徳川幕府は天守のない江戸城で政治を執り行っていたわけですが、そこには幕政そのものの変化があったのではないかと杉山さんは言います。

「江戸幕府は体制が盤石になるにつれ、軍事力を誇示するより、儀礼による政治を重んじるようになっていきました。大名たちが将軍に謁見する際には、家格や官位に応じて、どこまで進むことができるか1畳の畳ごとに、こと細かに定められていたといいます。格の低い大名からは将軍の姿はほとんど見えなかったでしょうが、その見えないことが、ある意味、将軍の権威になっていたのです」

明治31(1898)年に制作された佐竹永湖の『江戸城年始登城風景図屏風(江戸東京博物館蔵)』。この屏風画には天守はなく、中央上に富士見櫓が描かれています。
実物大で再現された松の廊下のふすま絵
周囲16㎞にも及ぶ江戸城総構えの中には江戸庶民の暮らしがありました
幻の天守や壮大な本丸御殿を精巧なジオラマで再現
天守再建のために作られた『江戸城御天守百分壱之建地割(江戸東京博物館蔵)

皇居東御苑には巨大な天守台が今も残る、皇居東御苑を歩く

徳川将軍家の居城であった江戸城は、明治元(1868)年、皇居に生まれ変わりました(明治21年から使われていた「宮城」という名称は昭和23年に廃止)。現在、皇居内には天皇皇后両陛下のおすまいである御所の他、諸行事を行う宮殿、宮内庁関係の庁舎などがあります。

このうち、天守跡など、江戸城の遺構を数多く残しているのが皇居東御苑です。ここは皇居外苑や北の丸公園などと同様、自由に入園して見学できるようになっています。

かつては江戸城に登城する大名たちも使っていた正門、大手門から東御苑に入っていくと、まず目を奪われるのが通路の両側に連なる石垣の見事さです。なかでも本丸中之門跡は、人の背丈よりも大きな巨石が一分の隙もなく積み上げられ、天下普請に注ぎ込まれた人力や財力、技術力の高さが窺い知れます。

そこから百人番所や大番所といった建物のある坂道を登り詰めると、目の前に広がるのが本丸跡広場。そして、その広々とした芝生の先にどっしりと構えているのが、かつての天守を支えていた天守台です。現在残る天守台は、明暦の大火の翌年、加賀藩前田家の普請によって再建されたもの。その大きさは東西約41m、南北約45m、高さ11mというものです。

巨大な石組みを近くから仰ぎ見れば、今はない江戸城天守の壮大さを思い描くことができるはず。天守台の上に立てば、眼下の本丸跡広場や皇居の森、さらには周囲のビル群まで一望にできます。

この他、皇居東御苑には、松の廊下跡や大奥跡、整備の行き届いた二の丸庭園など見所がたっぷりあります。また、ランニングコースとしても人気の高い皇居の周りを歩いてみるのもいいかも知れません。1周は5km弱。あらためて江戸城のスケールの大きさを実感できるでしょう。