縄文時代、人と共に渡来してきたと考えられる日本の犬は、急峻な山や川が多い日本という島国の中で、独自の進化を遂げてきた。また、近年まで、彼らは比較的人の手による改良を経ず、強者同士が交配するという自然の摂理にのっとった子孫の残し方をしてきたため、世界的に見ても原始的な性質を色濃く残している。
ここでは、そんな日本の犬のうち、天然記念物にも指定されている柴犬、甲斐犬、北海道犬、紀州犬、四国犬、秋田犬の6種の日本犬について、そのルーツを探って行きたい。
文・写真 : 舟橋 愛 Ai Funahashi
世界的にも有名な日本犬唯一の大型犬
天然記念物日本犬6犬種を追ってきたシリーズも今回で最終回となった。第6回は、天然記念物に初めて(昭和6年7月)指定された日本犬にして、日本犬の中では恐らく世界中で最も有名な秋田犬を深掘りしたいと思う。
秋田犬のスタンダードは、体高が牡で二尺二寸(66.7㎝)、牝で2尺(60.6㎝)とし、上下3㎝までの範囲が標準とされる。色は赤毛、白毛、虎毛、胡麻毛(以前は斑と黒もいた)で、立ち耳・巻尾、方形に近い体型である。気性としては、一代一主性が強く、大きな体を持ちながら通常は温和で素直な個体が多い。だが、いざという時に見せる凛性と威風堂々とした立ち居振る舞いは、日本犬唯一の大型という巨躯も相まって迫力があり、静と動の両面性に魅了される愛犬家も多いようだ。
また、多くの人が思い浮かべるのは、やはり「忠犬ハチ公」ではないだろうか。急逝してしまった飼い主の帰りを待ち、生前の彼を出迎えた渋谷駅に10年以上毎日通い続けた。その姿に多くの人が心を打たれ、銅像や映画が作られて、世界中の涙を誘った。その忠誠心がいかにも日本犬らしいが、秋田犬には複雑な歴史がある。
特徴的な風貌・体格の理由は異例の歴史にあった
そもそも、地形的に狩猟に有利と思われる小型~中型犬が定着していた日本において、なぜ秋田犬だけ大型だろうか。ベルクマンの「北に行くほど生物は大きくなる」の法則に則って関東以南に棲みついた犬たちよりは多少大きかったかもしれないが、それにしても北海道犬より大きいのは不思議なことだ。
実は、秋田犬、特に闘犬に使われた“大館犬”という地犬には他犬種との交雑の時代がある。ほかの日本犬5犬種が「純血性を守るため」の保存だったとすれば、秋田犬は「純血性を取り戻すため」の保存だった。洋犬がどんどん日本に入ってきて、純粋な日本犬がいなくなっていった明治~昭和初期。「日本古来の犬を守ろう」という運動から日本犬保存会が発足し、時の愛犬家達が天然記念物指定のため、純粋な和犬を求めて奔走していたことを思うと、その第一号が秋田犬だったことは、当時の人々からしても驚きだったろう。
しかし、このタイミングで天然記念物に指定されていなければ、秋田犬は間違いなく姿を消していた。それほど種の存続は風前の灯だったようだ。
マタギ犬から闘犬、純血化へ。日本文化を体現してきた犬
秋田犬の歴史をさらに掘り下げてみたい。まず、秋田犬の源流は、一般的に山形・宮城・秋田・岩手県に連なる奥羽山脈の雪深い山間部でマタギの狩猟に使われていた地犬の、大館犬(おおだていぬ)・鹿角犬(かづのいぬ)などだそうだ。この時点で他の地域の中型犬よりやや大きかったのは確かなようで、主に熊猟に使っていたために自然と体が大きなもの同士掛け合わせていったのか、地形的に北方や樺太の犬が入って大きくなったのかははっきりしない。
この犬たちに大きな転換期が訪れたのは、明治時代。秋田県の大館は江戸時代から闘犬が流行っていたが、明治時代になるとその熱がいっそう高まり、一時は高知と並ぶ闘犬が盛んな地として知られた。
その際に闘犬として使われていたのが前述の“大館犬”と呼ばれる地犬だったが、土佐闘犬と比べるとどうしても弱い。俊敏で攻撃力は高くとも、噛みつかれるとすぐにキャインと声を上げてしまう大館犬は、皮が分厚く、痛みに鈍感で、どんなに噛みつかれても鳴かない土佐闘犬に最終的には負けてしまうのだ。
そこでこの大館犬に土佐闘犬の血を入れることが流行し、“新秋田”と称される犬が盛んに作られた。土佐闘犬も、四国犬にブルドッグやマスティフ、セントバーナードなど体が大きい犬や戦闘が得意な犬の血を入れたもので、日本犬の外見からは程遠い。結果、秋田犬も土佐闘犬のような風貌になり、和犬の姿を失っていった。
大正末期にもなると、既に大館にも近隣の村にも和犬の姿を留める秋田犬はいなかった。天然記念物保護や日本犬保守運動に尽力した渡瀬庄三郎博士が大正9年に調査に訪れた際も、秋田犬はその対象にはならなかった。
しかし、博士の激励により秋田犬保存の機運が高まり、昭和3年には当時の大館町長の泉氏が秋田犬保存会を結成。氏が所有していた栃二号や、その犬の孫であるトラ号一ノ関と、体高を誇る出羽号を主な種牡に、人々は純血秋田犬への道を模索し始めた。これにより、本来の姿から変わってしまった垂れ耳や上唇の緩さ、黒マスク、毛色、大きすぎる頭部などが正されていく。
途中、戦争を挟んで復興の道が頓挫するものの、戦後、何とか残った出羽の子孫や新たに脚光を浴びた金剛号などの登場、日本中に巻き起こった秋田犬ブームなどもあり、昭和中期にもなるとかなり整った、和犬らしい秋田犬が再び見られるようになった。
天然記念物指定の基準は、「日本特有の動物で著名なもの及びその生息地」「特有の産ではないが、日本著名の動物としてその保存を必要とするもの及びその生息地」といった項目がある。雑化の時代があっても、常に日本の文化や人の暮らしの傍らにいて変化してきた秋田犬だ。日本特有ともいえるし、ハチ公を代名詞に世界に知られることになった忠誠心もこれらを満たすと判断されたのだろう。
それにしても、姿形が変わっても、時代が変わっても、秋田犬の血は消えることなく受け継がれ、今ではまた威風堂々とした日本犬の姿を取り戻して世界中に愛されている。日本の地犬の中には、天然記念物に指定されず(されてさえ)消えていったものもあるというのに、この秋田犬の人気の秘密はなんだろうか。
気は優しくて力持ち。日本人好みの奥ゆかしい性格
公益社団法人秋田犬保存会で審査部長を務める齋藤晃氏も、秋田犬の魅力に憑りつかれた一人だ。初めて秋田犬を飼ったのは昭和50年、中学生の頃で、白毛の穏やかな牝だったという。ちょうど世間が秋田犬のブームに沸いていた時代、近所にも秋田犬を飼っている人がおり、一緒に散歩したり展覧会に付いて行ったりと、自然とその世界に入っていった。熱心に秋田犬について学び、いい犬に出会った結果、文部大臣賞や秋田犬保存会の最高賞である名誉賞を20代半ばで取り、30代で審査員になるという経歴を持つ。
そんな齋藤氏は、秋田犬の魅力についてこう語る。
「おっとりしているけれど、飼い主の心を汲む日本犬らしさがあって、やはり忠実ですね。昔うちで作出した子犬で、生後45日で他所に出した犬がいたのですが、大人になって飼い主の家族以外には触らせないような犬に成長していました。でも、数年ぶりに私たち夫婦が道端で会ったとき、遠目にもわかったようで尻尾を振って駆け寄ってきたんです」
忠犬ハチ公も、じつは上野博士と過ごした日々は1年半にも満たなかったそうだが、それでも10年間飼い主を待ち続けた。秋田犬にとって時間の長さは関係ないのかもしれない。自分が信じた人間であれば、生涯敬愛の対象となるのだろうか。
また、秋田犬保存会はアメリカやヨーロッパ、中国など世界20か所にも海外支部がある。日本文化が好きな外国人にとって、秋田犬からにじみ出る風格や渋さもまた日本の良さを感じさせるようだ。
「自分から攻撃はしないけれど、いざ来られたら刀を抜くぞ、という秘めた気迫がいいのではないでしょうか」というのも齋藤氏の言葉。
ほかの日本犬たちが古来の野性味を魅力とする抜き身の刀ならば、確かに秋田犬はどこか泰然自若としていて、鞘に収まった刀のようだ。秋田犬は、例えるなら日本の歴史という刀鍛冶が打って打って打ち抜いた、刀のような犬かもしれない。今の時代に合わせ、切れ味鋭い刀身はなかなか抜けない鞘の中に収めてしまった。しかし、もしも抜いたならまだその奥にはマタギ犬の血、闘犬の血がぎらりと光るのではないか。
日本犬は、人と暮らす山野の化身
日本犬保存の機運が高まり、6犬種が天然記念物として保存されるようになって約90年が経った。世界中で最も原始的な遺伝子を保有し、狼に近いとされる犬達も、日本人が狩猟から離れるにつれ、「気性が甘くなった」「整ってきてはいるが中身が伴わない」などと嘆かれる言葉が聞かれるようになってきた。
それでも、やはり日本犬にはどこか、ふとした時に表面化する野生の獣の片鱗と、昔の犬より愛想はよくなったとしても、心の中でははっきりと主を線引きする1代1主性が見え隠れするように思う。日本犬の魂は、それこそ日本の自然の一部であって、人が多少手を入れても本質は変わらないのではないだろうか。
だとしても現代の日本ではどうしても多くの日本犬が盆栽のような飼い方になってしまうわけで、それが悪いとも言えない。だけど、日本犬愛好家の方やこれから日本犬と暮らしたいと思う人には、日本の厳しく豊かな自然の化身が目の前にいるのだと考えてみてもらいたい。それでこそ天然記念物・日本犬の味わいが一層深くなるのではと思う。
取材協力
齋藤 晃氏(公益社団法人秋田犬保存会 審査部審査部長)
1975年より秋田犬を飼い始め、戦後、五郎丸との交配によって数多くの現代の基礎犬達を輩出・貢献した作出功労犬の一頭である「太平系」の伊藤益太郎氏、伊藤旦(わたる)氏に師事。