妖怪とは闇に蠢く気配や、自然に対する畏怖、心の不安などを背景に想像されたと言われています。時には怖ろしく、時にはユーモラスに、人々の暮らしの様々な場面に登場します。ここでは、妖怪研究家&蒐集家の第一人者である湯本豪一さんのコレクションを元に、この奥深い日本の妖怪の世界に皆様をお招きします。
今回は、町民などにも広く人気を博した百物語絵巻です。
文 : 湯本豪一 Yumoto Kōichi / 協力 : 湯本豪一記念 日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)
武士の肝試しが町民に人気に
この絵巻のタイトルとなっている「百物語」とは何人もが集まって、それぞれが持ち寄った怪談を話すという江戸時代に流行した怖さを楽しむ遊びで、何本もの灯りを点けて怪談が一話終わるごとに一本ずつ灯りを消して行き、最後の一本が消えて場が闇に包まれると怪異が起こるという言い伝えに基づいています。元来は武士の肝試しとして行われましが、やがて町民などにも広く人気を博していきました。座を盛り上げるために幽霊の掛け軸を飾るなどの趣向を凝らしたケースも少なくありませんでした。
こうした百物語の遊びが流行するとともに「諸国百物語」「御伽百物語」等々、何話もの怪談を収録して題名に「百物語」と付けた版本が発行されています。また、葛飾北斎が描いた北斎百物語など、錦絵にも百物語を画題にした作品が登場しています。
体験者は三次に住む稲生平太郎という16歳の武士
こんな背景があったからこの絵巻も「百物語絵巻」と名付けられたといえるでしょう。実はそれくらい多種多様な怪異が出現する物語を絵巻化したものなのです。その物語とは備後国三次(現在の広島県三次市)に江戸時代から伝えられている怪異譚で、単なる言い伝えではなくて実際の体験談といわれています。では、その体験とはどのようなものだったのでしょうか。
体験者は三次に住む稲生平太郎という16歳の武士で、怪異が起こったのは寛延(1749)年7月の丸々一か月にも亘りました。この体験を平太郎本人が記したり、平太郎から直接に体験談を聞いた知人が書き残した写本が現在まで伝えられています。また、国学者の平田篤胤とその弟子たちが調査して記録した写本も存在するなど種々の資料が少なからず確認されていますが、こうしたことからも平太郎の体験した怪異譚が備後三次という一地方で伝えられていたのではなく、広く知られていたものであることが窺えます。こうした写本ばかりでなく、絵巻としても様々な作品が現在まで残っていますが、この絵巻はその中の一つで一か月間次々と現れる怪異の数々を絵と文章で記録しています。
怪異のオンパレード
図はその一つで、7月30日に起こった怪異です。座敷に巨大な大顔が出現して平太郎を驚かせていますが、よく見ると首は炉から出ているのがわかります。実は炉の灰が大顔となったのです。そして、座敷にはいくつもの細長いものが描かれていますが、これはミミズです。平太郎がミミズを嫌っていたので多数のミミズを出現させて怖がらせようとしたのです。左側の壁にも大きな顔が浮かび上がっていることがわかります。
もう一つの図は7月5日の怪異で、何本もの足を持った蟹とも蜘蛛ともつかないような不気味な姿の妖怪が出てきたところです。この妖怪は大きな石が変化したものでした。他にも、女の逆さ生首が出てきたり、葛籠が巨大なヒキガエルになったり、ポルターガイストが起こったり等々、怪異のオンパレードがこの絵巻に描かれています。最後は魔王が姿を現して幾多の怪異を恐れなかった平太郎の勇気をたたえて退去するといったストーリーです。絵巻を見た人は次から次に現れる妖怪たちに驚きながらもわくわくしながら見入ってしまったに違いありません。
三次市には怪異にまつわる寺社や遺物なども存在
この絵巻は備後国三次に伝わっている怪異を描いたものですが、他にもいろいろな地方の怪異譚を記録した絵巻は散見できます。
その代表的なものに薩摩国の武士大石兵六が、狐退治をする物語があります。この話は狐を退治するために山に入った兵六がさまざまな妖怪の出現に怯えず、最後には狐を退治して仲間の待つところに凱旋するといったものです。
丹後国の狐にまつわる怪異を描いた変化絵巻も有名ですが、どちらも狐との関わりがベースとなっています。それに対して今回取り上げた三次の怪異はそうした怪異譚とは一味違ったユニークなものです。
三次市には平太郎と彼が体験した怪異にまつわる寺社や遺物なども存在しますので、機会がありましたら訪ねてみるのも面白いのではないでしょうか。