手間を惜しまず、染めを重ね、 ようやく生まれる伝統の紅色。シルクロード伝来の黄色い花が、 絹糸をあでやかな紅に染め上げる。伝統の米沢織りの職人、末野隆英さんを訪ねました。
文 : 佐々木 節 Takashi Sasaki / 写真 : 平島 格 Kaku Hirashima
名君・上杉鷹山の気概を今に受け継ぐ武家の機屋
米沢織が生まれたのは、名君として名高い上杉鷹山公の時代です。 そもそも上杉家は戦国武将・上杉謙信も輩出した名門で、豊臣秀吉の政権下では会津120万石の大大名でした。ところが、徳川家康と敵対したため、江戸時代になると米沢30万石(のちに15万石)に減封。それ までの格式や家臣団を守り続けていったため、藩の財政はたちまち窮乏していくことになります。
財政破綻寸前という状況で藩主になった若き鷹山公は、自ら厳しい倹約に努めるとともに、農村の復興や特産品の開発を図り、米沢藩を立て直していくことになります。このとき実施した数多くの殖産興業策のうち、最も成功したのが農家の養蚕、 そして、武家の妻や娘による織物だったのです。
明治時代から130年あまり続くよねざわ新田も、創業者の先祖は上杉家の家臣。鷹山公以来の「武家の機屋」の伝統を受け継ぐ会社です。
袴生地を中心にさまざまな織物を作り続けてきたよねざわ新田が、地元の特産品、最上紅花の染め物に取り組みはじめたのは今から50年ほど前のこと。3代目社長の新田秀次さんと妻の富子さんが中心となり、長い試行錯誤の末、化学染料に押されて姿を消しつつあった紅花染を見事に蘇らせたのです。現在、工場長を務める末野隆英さんは、その先代の時代から紅花染に携わっています。 「紅花は気温が低く、水が冷たいほど発色がいいのですよ」
そう言う末野さんの手は、染め物 職人のものとは思えないほど、きれ いで、つやつやしていました。
一般に化学染料は染め上がりと同じ色をしていますが、木の桶にたたえられた紅花の染料はほんのり赤みを帯びているだけ。ところが、染めてはさらす……という作業を何度も 繰り返していくと、白い絹糸は淡い桜色から濃い紅へと鮮やかに色付いていくのです。
紅花の原産地はエジプト。これが シルクロードを経て日本に伝えられたのは4〜5世紀のことといわれま す。染料としてだけでなく、口紅や頬紅の原料、生薬としても重宝され、 江戸時代には「紅一匁(もんめ)金一匁」といわれるほど高値で取引されていました。末野さんの手がつやつやしているのも、天然染料が持つ不思議な力 によるものなのかも知れません。
途方もない手間を経て生み出される韓紅花の色
「同じ色は二度と作り出すことはで きない……。それが紅花染の難しさ であり、いちばんの魅力なのかも知れませんね」
末野さんは一つひとつの作業を実 に丁寧に、ゆっくりとこなしていき ます。ときおり指先をなめるのは染料のpH(ペーハー)度をチェックするため。染料の元となる花餅(はなもち)から絞り出した液体は弱アルカリ性を帯びていますが、発色を良くするため、 米酢や烏梅(うばい=燻製した梅から作る液体)を加えて中性に近づけていきます。ただし、完全に中和してしまうと、逆にいい色は出ません。その微妙な加減を手触りや味で確かめながら進めていく姿は、まるで染料と会話をしているかのように見えました。
紅花染の最も濃い色合い「韓紅花」に仕上げるには、通常8回から10回、染めてはさらす作業を繰り返 すことになります。これを「八塩染め」と呼ぶそうですが、「それだけ千、何万という膨大な数の紅花を摘手塩にかけないと、 いい色は出ないということなんでしょう ね」と末野さんは話していました。
「染料も絹糸も、自然の素材を使っているため、織り上げるにはとても手間と時間がかかるんで すよ。でも、いちばん大変なのは、 花餅を作る農家の方たちかも知れま せんね」
こんな話を聞かせてくれたのは、 新進気鋭の染織家であり、よねざわ新田の5代目(現:専務)として会社を切り盛りする新田源太郎さん。最上地方に紅花が咲き乱れるのは 7月初旬。紅花には鋭いトゲがあるため、農家の人たちはトゲが硬くなる前、露が残る早朝の畑に出て、一 輪一輪、花だけを摘み取ってゆきま す。これを丹念にもみ洗いした後、赤みを帯びるまで自然発光させ、臼でついて名張を持たせ、むしろに挟んで煎餅状に踏み固め、天日で乾燥させると、ようやく花餅ができあがります。1回の染めに使用する花餅は約2kgで、それに必要な花びらは約20kg。韓紅花の色を出すには、何千、何万とい膨大な数の紅花を摘まなければならないそうです。
深く、あでやかで、やさしい伝統 の紅色には、作り手の途方もない手間と努力が秘められているのです。