日本庭園は先人の豊かな感性が築きあげた繊細、優美な空間芸術です。大陸からの影響を受けながらも、独自の創意を重ねて時代ごとに特色ある庭園文化を育み、今や世界に誇る文化遺産として注目を集めています。その歴史を辿ってみましょう。
文 : 藤沼 裕司 Yuji Fujinuma / 写真 : 中田勝康 Katsuyasu Nakata
【上古・飛鳥時代】日本庭園の黎明
古代の人々は巨石や流れ、鬱蒼とした森などを神の依り代と考え、身近にそれらを模した場をしつらえたことが日本庭園の源流とされます。4世紀後半と推定される三重県城之越遺跡では、祭祗関連の建物跡に奈良時代以降の手法に通じる流れや石組などの遺構が発見されています。
その後、仏教をはじめ大陸からさまざまな文化が入り、推古天皇の時代には、百済よりの渡来人が小墾田宮の庭に仏教世界の中心を表す須弥山に見立てた石を配し、アーチ式石橋と考えられる呉橋を架けるなど、庭園としての体裁を整えていきます。
飛鳥時代の庭園デザインは、推古朝以後は百済、天智朝以後は新羅の影響を受け、前者は池の形は方形、後者は護岸が曲線を描く池に中島を配する、などの違いがあります。また、庭園の装飾的な構成要素として石造物があり、飛鳥京苑池や酒船石遺跡などにその遺構が見られます。
【奈良時代】独自の庭園づくりの始まり
天平文化の花開いた奈良時代。街づくりをはじめ多分野で唐の影響は見られるものの、庭園意匠ではその要素を取り入れながらも大らかな自然風景式意匠を確立させ、わが国独自の庭園づくりの道を開きました。
飛鳥時代との違いは、屈曲した池泉の汀線、護岸に玉石や白砂を敷いて海浜を模した洲浜、人工の石造物に代わって自然石による景石や石組などで、特に海洋風景を再現した洲浜は奈良時代庭園独特の手法です。
代表的な遺構としては平城京左京三条二坊宮跡庭園、平城宮東院庭園などがあります。いずれも宴遊の庭で、前者は712年頃の作庭、曲流する流れの底や護岸の緩斜面は玉石敷き、屈曲点には造形を凝らした石組を配置して風景の見立てとしています。後者は767年頃の作で、伸びやかに広がる水面に緩やかな洲浜の汀線、岬先端には荒磯風の石組を配して海洋風景を見立てています。
【平安時代】饗宴の空間から西方浄土世界へ。
三方を緑の山並みに囲まれ水にも恵まれた平安京の都、絶好の条件を備えたその土地柄が作庭技術の著しい進歩を促しました。
当時の貴族は寝殿造の大邸宅に住み、建物南面に広大な池をつくって龍頭鷁首の舟を浮かべ、緩やかに曲線を描きながら池に流れ込む遣水で曲水の宴を楽しみました。
平安後期には末法思想が広まり、寝殿造庭園に曼陀羅世界の構図を当てはめた浄土庭園が発達します。寝殿は本堂、池の東岸を此岸、西岸を彼岸と見立て、そこに阿弥陀堂を建てて極楽浄土の現出を願いました。
また、橘俊綱著とされる最古の作庭指南書『作庭記』が著わされ、当時の庭園技法を今日に伝えています。
【鎌倉・室町時代】禅宗の流行と枯山水庭園
武士の世になり禅宗が盛んになると、自然の地形を生かし緑の山々を背景に禅宗寺院が建てられました。
鎌倉後期には夢窓疎石が出て、庭園は修禅の道場、民衆に禅を説く教化の場と唱え、自然を巧みに取り入れたその水墨画的意匠はのちの枯山水様式に多大な影響を及ぼしました。
室町時代の鹿苑寺と慈照寺の庭園は、従来の浄土式に禅宗様の要素を融合させた池泉庭園で、当時の北山・東山文化を代表する遺産です。
応仁の乱後、禅宗寺院で水をいっさい使わずに石や白砂、植栽で水景を表現する枯山水庭園が発達しました。そこは修行のため書院に居住まいを正して注視する座視鑑賞の場、自身と対峙する空間になりました。
【安土桃山時代】豪華庭園と侘び寂びの極小空間
長い戦乱を勝ち抜いた天下人はその権力を誇示するかのように次々と大規模な土木工事を起こし、それにともない豪華雄大な庭園がつくられました。そこでは以前のような精神性、宗教的な色彩は失われ、もっぱら権力者の遊興の場となりました。
その書院造の庭には、不老長生を願い鶴亀蓬莱を表現する豪快な石組や選りすぐりの名石が置かれました。
一方、茶の湯の流行とともに茶室が作られ、そこにいたる露地の様式も確立されました。露地は茶庭ともいい、そこでは限られた極小空間に侘び寂びの風情をたたえ、深山幽谷の趣を表現しています。露地様式の完成は千利休時代といわれています。
【江戸時代】各時代の要素を集大成した大名庭園
江戸に幕府が開かれ、その膝元に屋敷をもたされた諸大名がつくった大名庭園は、将軍家との良好な関係を保つうえで重要な社交の場でした。そのスケールは大きく、舟遊びができるほどの池泉回遊式が基本で、縮景は中国の西湖や日本三景など。有力大名は国元にも同様の壮麗な庭園を築きました。
京都では修学院離宮など貴族による作庭も行われ、雅趣に富んだ庭園がつくられました。江戸中期以降には富裕な町人の間にも広まり、一方で、間口が狭く奥に長い町家では狭い空間を利用した坪庭が普及しました。
この時代には小堀遠州が出て、今日に残る多くの名庭を手掛けました。
【明治・大正時代】洋風化と日本庭園の新潮流
急速な洋風化は日本の伝統文化を軽視するかのような風潮を生み、西洋式の技法や意匠を取り入れた和洋折衷庭園が主流になりました。江戸では多くの大名庭園が失われ、破却を免れたごく一部が公園として一般に開放され今日にいたっています。
しかし、従来の様式を望む声も強く、それに応えたのが小川治兵衛でした。池泉や流れを中心に借景となる背後の自然と庭内の景との連続、明るく開放的な芝生広場、林間にたたづむ茶室など、まったく新しい感覚で時の政財界人の別荘庭園を手掛け、日本庭園の近代化を導きました。
その一方で、焼失したり長年放置されたままの古い庭園にも目が向けられ、明治末には表千家の茶室や露地などの再興、修復も行われました。
【昭和以降】斬新な発想によるさまざまな試み
日本庭園の世界でも、大胆な主張、試みが顕著になりました。とりわけ重森三玲は花道、茶道にも通じ、古い時代の技法を尊重しつつも斬新な発想で独自の世界を開き、その作品は修復も合わせて200近くを数えます。また、建築家や彫刻家の感性による庭なども注目を集めました。
海外に向けては万国博覧会などで日本庭園が認知度を高め、西欧の主要都市でも見られるようになりました。国内では発掘調査に基づく復元も行われ、平城京跡などで貴重な庭園遺構が昔の姿を取り戻しています。
平成に入って以降、地球温暖化や過密都市のヒートアイランド現象などの問題から、ビルの外部空間や屋上庭園化の試みも始まっています。