長く複雑な海岸線から、内陸の山岳地帯まで、高低差も大きく変化に富んだ地形の島国・日本。それぞれの環境に合わせ、さまざまな樹木が組み合わさって、多種多様な森林を形成しています。ここでは植生の違いを中心に分類しつつ、ぜひ訪れていただきたい、魅力あふれる森をご紹介します。
今回は、人々の歴史と共に歩んで来た鳥海山です。
写真・文 : 石橋睦美 Mutsumi Ishibashi
万物が生まれいずる山
鳥海山と月山は、最上川の下流域に広がる庄内平野を挟んで北と南に聳え、ともに遥か昔から神坐す聖山として敬われてきた。死後の霊が集うとされる月山は、生命が再生する山と信じられた。それに対し、コニーデ型を顕著にする鳥海山は、往時噴火が激しく、朝廷は大物忌神として祀り安寧を願った。その活発な火山活動ゆえであろう。鳥海山は万物が生まれいずるとして恐れ敬われたのである。
森林限界に生えるブナの奇形樹
みちのくの山の豊かなる自然をテーマとした撮影に一区切りがついた頃、私の心を捉えた樹との出会いがあった。それは鳥海山の森林限界に生えるブナの奇形樹である。残雪が豊富な五月に秋田県側の登山口、祓川へ登った時である。標高を上げるにつれブナの樹高が低くなってくると、これまでとは違う樹形のブナが現れだした。丈が低く、根元から湾曲した主幹が何本もせり上がっている。まるで八岐大蛇を彷彿させる樹形なのだ。その樹を見付けたのは、もう二十年ほど前になる。
奇形化したブナは鳥海山の北西側中腹にだけ
それから機会あるごとにその樹を撮影してきたのだが、つい最近訪れると、幹が朽ちはじめていて、過ぎゆきた歳月に侘しさを感じるのであった。それにしても私の知る限り、奇形化したブナは鳥海山の北西側中腹にあるだけ、何か特別な要因が潜んでいると考えてみた。
これは私の考えだが、鳥海山の山頂は日本海まで直線距離にして十六キロしか離れてない。そして地形は山頂の北西側では、東西に尾根を伸ばした馬蹄形をしたカルデラ地形になっている。多分、冬季は北西季節風がここに集約して外輪山を越え、山稜を強風帯にすると思える。そうした厳しい環境に耐えたブナは、樹幹をくねらせ生長せざるを得なくなるのである。
人間が活用したことで奇形化
山麓で度々訪れる森がある。カルデラ火口底にできたブナ林である。中島台という暖傾斜地で、ここのブナも樹形が奇形化している。ただ原因は森林限界にある奇形ブナとは違い、人間が活用したことで奇形化してしまったブナで、このような樹をアガリコという。地上から二メートルほど主幹が立ち上がり、そこから数本に枝分かれした樹が多い。
なぜ、このような樹形ができたのだろう。まず歴史を紐解いてみよう。江戸期であった。「象潟町誌」によると、年貢の取り立てが厳しく、収穫した米の大半を上納させられ、農民の暮らしは覚束なかったと記している。ために中島台のブナを利用して薪とし炭を焼いて売り、暮らしの足しにした。ただ彼らはブナを根元から伐り取るのではなく、主幹を残しておくことにした。こうするとブナは奇形化するが枯死することはなく、伐り口から枝分かれして生長し、数年後には再び薪炭材として利用できるのである。
貧困に喘いだ人々の歴史
いまではブナを伐ることはできなくなったが、中島台のアガリコ林には、藩政時代に水飲み百姓と蔑まれ、貧困に喘いだ人々の歴史が秘められているのである。
象潟の蚶満寺は平安時代に慈覚大師円仁が開創したと伝える古寺である。西行や鎌倉幕府五代執権北条時頼、親鸞、そして江戸期には芭蕉や一茶も参詣した古刹である。その頃まで象潟は島々が点在する入江であった。が、文化四年の大地震で大地が隆起して陸地となった。
いま田園地帯に変貌したあたりに黒松が生える台地が点在している。それが島々の名残であって、かつての景勝を連想させる。蚶満寺に舟継石が残っているから渚にあったようだ。境内にタブノキの巨木が茂っている。
出羽路を行き過ぎた旅人の足音が聞こえてくるよう
この暖地性の樹がなぜ寒冷な出羽に生えているのか。一説に対馬暖流によって北上した種子が、海岸に漂着して芽吹き定着したのではという。そのタブノキの林が三崎にある。ここには蝦夷征伐の時代に築かれた有耶無耶の関跡があって、歴史の息吹を色濃く感じさせる。