妖怪とは闇に蠢く気配や、自然に対する畏怖、心の不安などを背景に想像されたと言われています。時には怖ろしく、時にはユーモラスに、人々の暮らしの様々な場面に登場します。ここでは、妖怪研究家&蒐集家の第一人者である湯本豪一さんのコレクションを元に、この奥深い日本の妖怪の世界に皆様をお招きします。
文 : 湯本豪一 Yumoto Kōichi / 協力 : 湯本豪一記念 日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)
カラー化で妖怪たちがいききと
『絵本百物語』は天保12(1841)年に全5巻で刊行された版本で桃山人が文を書き、竹原春泉斎が絵を描いており、別名を『桃山人夜話』といいます。『絵本百物語』はすでに紹介しました『画図百鬼夜行』と比較されて論じられることが多くあります。その理由はどちらも妖怪図鑑的な版本として有名であるにも関わらず、対照的な特徴を有しているからです。
『画図百鬼夜行』は墨一色で刷られているのに対して『絵本百物語』は見てすぐわかるように多色刷ということです。『画図百鬼夜行』は安永5(1776)年に刊行されているので、『絵本百物語』が刊行される65年も前に出されています。木版印刷で刷られた妖怪は時代が下るにつれて多色刷が多くなります。その象徴的なものが錦絵に描かれた幾多の妖怪絵で、カラー化されたことによって妖怪は迫力を増し、人々の更なる支持を得ることとなります。そして、こうした時代背景のなかで出された『絵本百物語』も妖怪たちがカラーで生き生きと描かれているのです。
竹原春泉斎の絵と桃山人の文で完成
こうして『絵本百物語』に収録された妖怪たちは古くから言い伝えられたものたちなのですが、残念なことに絵としては伝えられていないものばかりだったのです。しかし、考えてみると噂や伝説や書かれた記録で確認できる妖怪は数えきれないほどあるものの、古くから描き継がれてきた妖怪はほんの一握りだけなのも事実なのです。こうした状況から『絵本百物語』では収録するに際して新しく妖怪たちを描くことにしたのです。そして、その絵を担当したのが竹原春泉斎だったのです。そんなことから文が桃山人、絵が竹内春泉斎という合作としての『絵本百物語』が完成するわけです。
いっぽうで、『画図百鬼夜行』はというと古くから伝えられていた妖怪絵を参考にして自分なりのオリジナルを加えて描かれたことが作者の鳥山石燕によって記されています。さまざまな妖怪を一つ一つ紹介するということでは『絵本百物語』と同じですが、この点でも対照的なのであり、両書を比較検討することは、戸時代に妖怪がどのように増殖し、妖怪文化がいかに広がっていったかを知る上でも重要なポイントなのです。
小僧の霊が小豆を洗う姿
説明が少し長くなりましたが、最後に図版について記したいと思います。図の「小豆あらい」は越後(新潟県)高田にあった寺の小僧が川べりで小豆を洗っているところです。この小僧は優れた能力の持ち主で、洗っただけで小豆の数を知ることができたのです。その卓越した能力を見た住職は小僧に寺を譲ろうと決めたが、同じ寺の円海という悪僧が妬んで住職が留守の時に小僧を殺して井戸に投げ捨てたところ、夜な夜な小僧の霊が現れて雨戸に小豆を投げつけたり、小川で小豆を洗ったりしていたといわれます。すなわち、ここに描かれているのは小豆を洗っている小僧の霊なのです。
そうした背景を知ってこの絵を見ると何とも不気味に思えませんか。小僧の霊を見た村人たちの噂によって寺に来る人はいなくなり、円海が殺したことも発覚して円海は死刑となりましたが、その後に井戸端で円海の霊と小僧の霊が出て言い争うようになり、夜更けになると両者が取っ組み合ったままで井戸に落ちる音がするということが続き、やがて無住の寺となって元禄2(1689)年に焼失したということです。
こうした各地の怪異譚が44話収録されています。すなわち44種の妖怪絵が新たに作られたわけですが、江戸時代にはこのような新しい妖怪絵が数多く登場することとなります。それは妖怪文化の広がりでもあり、古くから伝えられた妖怪とともに人々にその存在をアピールすることとなります。こうした新しい妖怪絵は明治時代以降も引き続き生まれているのです。