歌舞伎の音楽に無くてはならない「竹本」。この分野で重要無形文化財保持者に各個認定(いわゆる人間国宝)された竹本葵太夫さんに、「竹本」について、また「竹本」との出会い、これからの「竹本」に期待されることなど、お話をお伺いしました。
インタビュー・文 : 前原恵美 Megumi Maehara / 写真 : 岩田えり Eri Iwata
竹本葵太夫(たけもと・あおいだゆう)
昭和35年に東京都大島町に生まれ、同54年に国立劇場伝統芸能伝承者養成「歌舞伎音楽(竹本)」研修第3期生となる。研修中の同年、初世・竹本扇太夫(おうぎだゆう)からその前名を譲られ2世竹本葵太夫(あおいだゆう)を名乗り、国立劇場7月歌舞伎鑑賞教室公演において初舞台を勤める。
葵太夫は早くから重要な場面を勤める機会を得つつ着実に芸歴を重ね、とりわけ平成に入ると6世中村歌右衛門(なかむらうたえもん=重要無形文化財「歌舞伎女方」(各個認定)保持者)から多く依頼を受けるなど、その力量は斯界において重要な位置を占めるようになる。
以後もたゆまぬ研鑽に励み、平成13年には重要無形文化財「歌舞伎」(総合認定)保持者に認定され、高度な技量をもって歌舞伎を竹本太夫として支え現在に至っている。 また演奏のみならず、作曲、補曲の作業を通じて、上演が稀な演目の復活にも尽力を続けている。常に先人の教えを重視し、研究に余念のない舞台に対する姿勢は,歌舞伎俳優や他の演奏者から厚い信頼を得ている。
こうした活動成果に対して, 第4回松尾芸能賞新人賞,昭和61年度(第37回)芸術選奨文部大臣新人賞、第 37回伝統文化ポーラ賞優秀賞などが贈られている。 また後進の指導にも尽力し、国立劇場伝統芸能伝承者養成「歌舞伎音楽(竹 本)」研修及び同「歌舞伎俳優」研修の講師を務めるほか、斯界の要職をも歴任し、歌舞伎や義太夫節の振興にも貢献している。
文楽の義太夫節、女流の義太夫節と、歌舞伎の義太夫節「竹本」
歌舞伎には音楽が不可欠ですが、歌舞伎で演奏される音楽にもたくさんの種類があります。その中で竹本葵太夫さん(以下「葵太夫さん」)が専門とされている、歌舞伎の「竹本」について教えてください。
葵太夫:義太夫節は、江戸中期に大坂の芸能として竹本義太夫が始めたもので、その流れが現在の文楽公演で聴かれる義太夫節、または女流義太夫公演で聴かれる義太夫節です。これは言わば「本格的な義太夫節」です。私どもの「竹本」は、歌舞伎が人形芝居から取り入れたレパートリーを上演するために必要とされて発生しました。ある種、歌舞伎という舞台の「部品」のような存在です。だからと言って、部品がきちんとしていなくては歌舞伎が回っていきません。お刺身で言えばわさびのような存在でしょうか。わさびも、良いわさびでなかったらお刺身が引き立ちません。ですから、「竹本」は単体では芸能として成り立ちません。あくまでも歌舞伎の中の一部分、これがほかの義太夫節との大きな違いです.
歌舞伎との出会い、「竹本」との出会い
葵太夫さんはどのように歌舞伎と出会い、歌舞伎で演奏される音楽の中でも特に「竹本」の浄瑠璃(声のパート)を志そうと決心されたのでしょうか?
葵太夫:はじめはテレビで歌舞伎を見て、色彩も綺麗で「歌舞伎は面白い」と思いました。そして東京の親戚に歌舞伎座に連れて行って欲しいと言って、生で歌舞伎を観ました。そうすると舞台の右手で演奏している義太夫節の存在に目が行って、「これはすごいなあ」と思ったのです。そこへ、竹本の後継者が不足しているので国立劇場の伝統芸能伝承者養成[1]が始まるということが新聞等で報道され、「門閥外の人間でもこの仕事ができるのだ」と知り、やってみたいと思いました。
(歌舞伎にも色々な音楽がありますが)不思議な縁ですね。「歌舞伎が好きだったら、どうして歌舞伎俳優にならなかったのですか?」とよくご質問を頂きますが、初めから「あの義太夫をやってみたい」と思ったのです。
[1] 独立行政法人日本芸術文化振興会(国立劇場の事業運営も行う)では歌舞伎、文楽、能楽等の伝統芸能の保存と育成を目的に、研修生を募集し、伝承者の養成に取り組んでいる。
義太夫節の最初の師匠、竹本越道師
竹本の手ほどきを受けた女流義太夫の竹本越道師はどのような先生で、どのようなお稽古をされたのでしょうか?
葵太夫:竹本越道師はとても優しくて親切なお師匠さんでした。お稽古では、まず差し向かいで、お師匠さんが一しきり(15分くらい)語ってくださいます。そして「今度は一緒についていらっしゃい」ということで、口の開け方を見ながら、見よう見まねで節(旋律やセリフの言い回し)をなぞっていくのです。そしてだんだん慣れてきたら、一人でやってみて、違うところを修正して頂きます。楽譜というものはありませんから、詞章の書いてある浄瑠璃本を見ながら。特殊な崩し字ですが、だんだん目慣れてくると読めるようになります。ごくごく初歩の時は、言葉の意味までは教えていただかず、とにかく耳で聴いて、それをきちんとコピーします。
その後、高校を卒業して東京に出てきて、研修生になりました。ちょうどそのころ2年間の研修の2年目に入っていて、越道師匠のところで少し下地があったので、編入ということで入り、1年間の研修で修了しました。当時はとにかく手が足りないので、実戦で鍛えようということで、4月に養成所に入って7月には初舞台でした。
初舞台は、だいたい合唱部分から始まるのですが、私はいきなり主役が登場するソロの部分をやらされました。私を引き立ててくださった竹本扇太夫師匠から、ご自身が以前名乗っていらっしゃった葵太夫という名前を頂戴しました。
初舞台の時はとにかく緊張しましたが、何よりも俳優さんとのお稽古に入った時に、「こんな若い子が出てきたのか」とみなさんにびっくりされました。当時、竹本の平均年齢が60歳より上という状況の中に、18歳の私が飛び込みましたから、みなさんは目を丸くして見ていらっしゃいました。
歌舞伎の中に色々な音楽ジャンルがあって、例えば長唄、囃子は部長という元締めのような方がいらっしゃって、その方が人員の配置や経済的なことも全て責任を持ちます。しかし竹本連中はみんな個人営業主です。ですから、研修終了後は、師匠方に色々とご指導いただきながら、自分で待遇面などの交渉もするようになりました。
演奏の面では、(経験を重ねると)余計なことで心配しなくても良いようになってきます。それはこの部分をきちんとやらなくてはならない、ということがわかるようになってくるということです。こういう点で、竹本は芸術家というのではなく、職人芸だと思います。
察して機転を利かせる技
歌舞伎俳優さんにはお家によって型というものがあって、型によって詞章から何から違うと聞きますが?
葵太夫:よく『梶原平三誉石切(かじわらへいぞうほまれのいしきり)』を例に挙げますが、中村吉右衛門さんの播磨屋型、市村羽左衛門さんの橘屋型、中村鴈治郎さんの成駒家型、大まかに三種類ありますが、それぞれ昔の先輩方の床本(ゆかほん)という譜本が残っております。それをきちんと書写して覚えて、稽古場に行って俳優さんの様子を見ながら演奏します。
また、同じ系統であっても、俳優さんが変わると違いますし、同じ俳優さんでも前回と今回で違う場合もあります。「前回はこうでした」というように、前例にあまりこだわってはいけないのです。俳優さんも工夫をなさいますから、変化を我々は察しなければなりません。そうしてこちらの方から機転を利かすということをします。
師匠方が楽屋にお入りになったら、洋服から楽屋の着物にお着替えになる、そして着替えが済んで帯を結んで座布団にお座りになるころにお茶を持っていく、そういうお手伝いのタイミング、「相手がどういう状態だから次の行動はこうなる」、というようなことは、舞台で役者さんのきっかけを見るのと一緒です。日常からそういう訓練をしなければいけません。事実、そういうところに機転が利く方は、舞台の見計らいも上手です。見計らいばかり上手でも演奏がきちんとしていなければいけないのですが、その両輪が必要です。
昔、テレビのドキュメンタリー番組で、文楽の義太夫節の太夫さんと三味線弾きさんが互角に舞台でぶつかりあうということを扱った番組がありましたけれども、あれを我々がやるとまずいのです。やはり、まず太夫と三味線が合っていなければならない。太夫と三味線の気持ちが合っていて、今度は俳優さんの仕草を見て、二人で一致協力して俳優さんのやり易いように編曲、アレンジしなければならない。ですから、俳優さんとの稽古中が一番ピリピリします。初日が開いてだいたい三日間くらいは色々な注文が来ます。
我々は俳優さんを楽しみに来てくださるお客様に喜んで観ていただけて、「ああ良かった、そういえば義太夫も良かったわね」と後で思い出していただければそれが本望なのです。あまりこちらの方からしゃしゃり出てはいけないと思っています。われわれの歌舞伎竹本の値打ちというのは見計らい、「相手を思いやる心」ということではないでしょうか。
決めすぎてしまわない技
太夫さんと三味線が寄り添って一つのものになっていることを前提としつつ、俳優さんに寄り添うためには、どういう準備されるのでしょうか?
葵太夫:三味線弾きさんとの稽古で、組立てをガチガチに決めてしまわないのが大切です。あまりガチガチに決めてしまいますと、今度は俳優さんとお稽古に入った時に融通が効かなくなってしまうのです。例えば電車が混んでいます。そうするとしばらくすると、それなりにみんな席に着きます。ああいう状態にしておいて、稽古中から初日にかけて短期間のうちに組立てていくのです。
私がこの世界に入った時分に、先輩から「竹本というのは十の力があったら、そのうち三つくらいは何があっても良いように残しておくものだ。それを全部一生懸命やって、さらに十一、十二やろうとすると、物事が間違ってくる」と言われました。
俳優さんが我々の演奏で演じて、お客様から拍手を頂戴するのが、私などはやりがいです。
竹本の技を支える大切な「もの」
竹本を支える周辺の道具としては、例えば太夫さんが使われる譜本(床本=ゆかほん)を置く見台(けんだい)と呼ばれる譜面台を思い浮かべますが、ほかにはいかがでしょうか?
葵太夫:大きな「見台」を構えて、「肩衣」(かたぎぬ)という裃を付けます。周辺の道具というものはいわゆる本格的な義太夫節とそう変わりません。見台は、文楽の場合は個人持ちですが、歌舞伎の場合は劇場が備品として用意しています。ですから、「紋板」(もんいた)という、紋章の入る正面の板にはその劇場の座紋が入ります。歌舞伎座でしたら鳳凰丸、国立劇場でしたら天女のマークが金箔で入れられています。座布団なども劇場の備品です。肩衣は太夫持ちです。太夫が人数分用意して、「どうぞ着て下さい」と言って、三味線弾きさんにもそれを着て頂きます。肩衣には太夫の紋が入っています。
肩衣は演目に合うように用意しますが、登場人物の扮装にかぶらないように、どちらかというと大道具の色を取ります。例えば茶系の感じの装置でしたら茶色にする。主役の方が紫を着ていたら、紫を着ないで別の色を取る、という配慮をします。「こちらを見てください」と言うような主張の強いものはいけません。それはお行儀が悪いです。
太夫さんの「床本」
太夫さんが舞台上で使われる床本は、一般的な「楽譜」とはまるで違いますね。
葵太夫:これはもう、簡単な心覚えで、進行表のようなものです。
文言の脇に「いろは」を崩した符号で書いてあるのが三味線譜で、役者さんのセリフのキッカケも書いてあります。要所は動きも書いてあります。これは(写真)少し貼紙がしてありますが、役者さんによって手(三味線の旋律)が違う場合に修整するのです。また、末尾には勤めた時の記録というのもこのように書いてあります。
見習いの時分に、先輩の床本を拝借してそれを罫紙などに写します。今はコピーをとる人が多いですが、「コピーをとっても家できちんと書きなさいよ」と私は指導します。「10遍読むより1遍書け」と言いますが、一生懸命見ながら書写していると、「この三味線の手は語りのどこに合うのだろう」とか「この動きはどうなのだ」とかいうことがだんだんわかってきますので。そうやってお稽古用の本を作って、役が付いたら、本式に石州半紙(せきしゅうはんし)に書き直します。
我々太夫にとっては床本が一番大切ですね。三味線弾きさんはもちろん三味線が大事でしょうけれども、太夫はやはり床本が大事で、折々は押し頂いています。舞台上では我々はいたしませんが、文楽の方は語り始める前に必ず舞台で本を押し頂きます。私は、表でやると目立ちますので、舞台に出る前に裏で押し頂きます。
竹本の技を支える大切な「こと」
葵太夫さんにとって、竹本の技を支える大切な「こと」とは何でしょうか?
葵太夫:よくお相撲でも心技体と申しますが、まず心がきちんと安らかでないといけませんから、あまり色々なことを思い詰めないようにして、なるべく陽気でいたいと思っております。技は色々先輩から教わったこと、また自分で工夫したことをきちんと整えておく。そして体が資本です。在宅ではできない仕事ですから、劇場に出勤してきちんと舞台に座って声が出せるという…これさえできれば定年はありませんので。
竹本の将来を見据えて
葵太夫さんは、ご自身の歩みにとって重要な起点となった養成所に、今は指導者として20年ほど係わっておられます。竹本の後継者育成にかける思いをお聞かせください。
葵太夫:平均年齢60歳以上の竹本の業界にポコンと18歳で入りましたころは、明治・大正生まれの師匠方がまだご健在でしたから、色々とお稽古をして教えてくださいました。
その時にあるお師匠さんが、まだ私のレベルではできないような細かいことを教えてくださいました。「これは君だけに教えるのではない。君が覚えておいてくれてまた君の次の世代に伝えてくれるだろうと思うから教えるのだ」と。なるほど、伝統芸能というものは、前の方から受け継いで、今度は次の世代に伝えるということがなければ、伝統芸能ではありません。色々な仕事を習って、自分一代それで生活ができて後はさよなら…というのでは、教えてくださった師匠方に失礼だと思います。ですから、なるべくきちんとした形で次の世代に伝えたいと思います。
一方で、幸いにしていまは録音や録画の色々な媒体がありますから、そういうものを活用しながら、今の新しい形で教えるということを模索しております。私は自分が情報量の多いお稽古というものをしていただきましたので、なるべくそれをやっていこうと思っています。ですからツイッター[2]などで、色々な昔のことについて師匠方から伺ったようなことを書いたりしていますが、それはやはりこのまま私が聞いたままで終わってしまうのは勿体無いと思うからです。
[[2] 竹本葵太夫さんのツイッターんのツイッター:https://twitter.com/aoidayu
「人間国宝」(重要無形文化財各個認定)に認定されて
竹本の「人間国宝」になられた今、思いを新たになさることがありますか?
葵太夫:認定をお受けしたあと、文化庁のサイトで重要無形文化財保持者とは、ということで調べてみましたら、優れた技を実現できる人に与えられるのだとありました。優れた技を「実現」ということが、私はまだ自分ではこころもとない。私の心の中のもう一人の私が「あんなのではだめだよ」と言っておりますので、早く少しでも良くして上等なものにしたいと思っております。
後進の指導ということになりますと、これは私は、こんなことを申し上げて口幅ったいですけれども、よくやっている方ではないかと思っています。おかげさまで私は指導者に恵まれまして、文楽の竹本源太夫(九代目)師匠にはずいぶんと可愛がって頂いて、結構なお教えもたくさん頂戴いたしました。そういうことも含めて、歌舞伎竹本の若手に伝えていこうと思っています。そして嬉しいのは、中学を卒業と同時に研修生になって出てくる人がいます。竹本に挑もうという強い気持ちの若手が増えてきていますので、とても嬉しいです。ですから平均年齢もただいまは40代前半くらいに下がったのではないでしょうか。そして、若返っただけではいけませんので、内容の方も一生懸命若手に稽古をしております。若手に稽古をしていると、私よりも素質のある人がいますから、やがて私より上手くなります。それで良いと思います。そういう人をたくさん作りたいと思っています。
「口伝は師匠にあり、稽古は花鳥風月にあり」
葵太夫さんがモットーとされていることはありますか?
葵太夫:義太夫の創始者である竹本義太夫師匠の教えに、「口伝は師匠にあり、稽古は花鳥風月にあり」という言葉があります。口伝というのは口伝えの情報。それは師匠、先生がもっている。稽古というのは、それを自分のものとして消化して、次は研ぎ澄まして再生する、そういうことは「花鳥風月」にあり。つまり、それは花が咲いてきれいだ。鳥の声が美しい。風が吹いて、ああ爽やかだ。月が出て綺麗だ…とか、そういうつまり生活全般だと思うのです。習うことはきちんと先生に習って、生活全般で習ったことを深めるように励みなさい、という教えだと私は解釈しています。その両方がなくてはならないと思います。
全てが芸に通じていて、日常のすべてが芸に集約されるほど打ち込めていると幸せだと思います。
インタビューを終えて
インタビューは2019年初秋に都内で行われました。例年にも増して暑さの残るその日の午後、竹本葵太夫さんは涼し気な着物姿で、申し訳ないことながら、私よりも先にインタビュー場所にいらっしゃっていました。お話を伺っていても、人間国宝というお立場になられたにも関わらず、「清廉」という文字がぴったりのお方で、私の愚直な質問に真摯に耳を傾けてくださり、言葉を選んで丁寧にお答えいただきました。
あくまで謙虚に、目立たず、相手を慮って見計らう、そうした葵太夫さんの芸に対する姿勢がそのままインタビューの受け答えにも映し出されていると感じました。(前原恵美)