石材を豊富に産する沖縄では代々その加工技術に秀で、幾多の優れた石造の遺構がよく残ります。これらの石の文化財のうち、首里城跡などグスク5カ所、関連遺産として庭園など4カ所が2000年に世界遺産登録されました。

独自の様式に日中の意匠が混在する最大の木造建築

沖縄本島では12世紀以降、各地の勢力が城を築いて争いを繰り返しました。その拠点となった城は、グスクと言われています。1429年に統一がなり琉球王国が成立しますが、その拠点が首里城で、以後ここを中心に日中との交流などで独自の文化を開花させました。

首里城は那覇港を見下ろす丘陵上にあり、築城は14世紀末と推定されていますが、のちに見られるような内郭と外郭を整えた威容が完成したのは16世紀半ばでした。江戸時代に入って、1660年と1709年に失火により焼失しましたがその都度再建され、1715年に全域の修復を終えました。

維新後、明治政府が城の明け渡しを強要したため琉球王は追われ王国は崩壊、ここに熊本鎮台沖縄分遣隊がおかれました。その後、老朽化を理由に解体の話もありましたが免れ、本格的な修理が行われて旧国宝に指定されました。しかし、第二次大戦により一帯は徹底的に破壊されました。

首里城の復元が始まったのは1972年、沖縄の日本復帰以降で、城跡の利用が検討され、首里城公園としての整備が進められました。そして、1992年11月、主要部分が完成し、一般に公開されました。

城内で最も重要な建物は儀式や公式行事の場となった正殿で、二重三層総漆塗りの木造建築は県内最大、琉球独自の様式の中にも日本や中国の意匠が取り入れられています。ほかにも門や城壁、大事な祭祀空間としての御嶽(うたき)「がうっそうとした樹林の中に復元されました。

首里城

それから27年後の2019年10月31日未明、正殿から出火して燃え広がり北殿や南殿など主要建造物6棟が失われました。原因は電気系統のトラブルともいわれますが、定かではありません。現在、2026年の再建を目指しての取組みも進められ、一般を対象にした募金活動も行われています。沖縄の人々の心の拠りどころとしてばかりでなく、日本の誇る文化財でもあるこの首里城が再びよみがえり、その雄姿を仰ぐ日が1日も早いことを祈るばかりです。

城の北西、守礼門の先にある園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいしもん)は、王家の拝所として国家的な祭祀や行事に関わり、国王が外出の際にはここで道中の安全を祈りました。背後の樹林は御嶽の本体で聖域とされ、かつては豊かな森が広がっていました。唐破風(からはふ)の屋根をかけ、左右の石積みを備えた石門は拝殿の役割を担いました。

自然崇拝や祖先崇拝に始まる御嶽信仰

城の西には第二尚(しょう)氏歴代の墓所で、1501年完成の玉陵(たまうどうん)があります。第二尚氏とは、琉球王国を築いた尚巴志(しょうはし)の王統が絶えたあと、尚氏を名乗って王位を継承した一族を言います。墓の遺構としては沖縄最大、集団墓で3室の東側に王と妃、その他は西側に埋葬され、塔上から災厄を払うとされる獅子が見守ります。

玉陵

石の建造物の多い沖縄で、水と緑をたたえて人々を和ませているのが識名園(しきなえん)です。首里城の南西、湧水に恵まれた高台に位置する国王の別荘跡で、中国皇帝の使者を迎えるためにも使われました。庭園は日本風の広々とした心字池を中心とする池泉回遊式ですが、東屋や石造アーチ、灯籠などは中国風、池の周囲は琉球石灰岩で囲われています。ここも戦後の復元で、国の名勝に指定されています。

識名園

那覇市南東の南城市には、琉球第一の霊場斎場御嶽(せいふあうたき)。奇岩の多い丘陵上にあり、巨岩の隙間を潜ると、眼下の中城湾(なかぐすくわん)に琉球の始祖アマミキョ降誕伝説の久高島(くだかじま)が浮かびます。その昔、この地で最高位の女性神官の即位式が行われたり、歴代国王が参拝するなど、国家的な行事に重要な役割を果たしてきました。御嶽はこの地方ならではの自然観を素直に具現する信仰の場で、今も参拝者が絶えません。

霊場斎場御嶽

壮大な石垣は石造技術の粋を結集した貴重な遺構

沖縄本島南部を中心として南西諸島に分布する城や砦の始まりは12世紀前後と考えられ、完成期とされる14世紀末には各地に250余を数えました。特に小勢力が排除されて実力者の対立構造が明確になる14世紀に入ると、相次いで大型グスクが登場しました。グスクの景観上の特徴は、琉球石灰岩の石垣が曲線を描きながら延々と郭を取り囲む壮観な姿で、そこには大陸からの影響がうかがわれます。

中頭地方(なかがみちほう)の北中城村と中城村にまたがる中城城跡は15世紀前半の築城で、標高160mの断崖上に城壁の石垣をほぼ完全な状態で残しています。石垣はいくつかの技法で積まれていますが、特に三の郭では不規則な石の接合面を合わせながら積み上げる相方積(あいかたづみ)と言われる高度な技法によっています。幕末にはペリー艦隊が上陸して、この城を調査しています。

座喜味城址

本島中部うるま市の与勝半島(よかつはんとう)にある勝連城跡(かつれんじょうあと)は1300年頃の築城と言われ、急傾斜の自然地形を巧みに生かした五つの郭で構成されていました。各郭は珊瑚質石灰岩の切石で曲線状に築かれた石垣に守られ、最高所の一の郭は城主の私的空間、二の郭にはこの城の中心施設としての正殿、三の郭には儀式や公式行事のための御庭(うなー)があったと見られています。

勝連城

グスクは聖なる場、人々の心の拠りどころ

15世紀初頭、本島中部の読谷村(よみたんそん)中央部に築かれた座喜味城跡(ざきみじょうあと)はわずか二つの郭しかもたない簡素な構造ながら、複雑に屈曲を繰り返す石垣に取り囲まれて防御を万全にしています。屈曲部や突角部は迎撃態勢をとりやすく、有事への意識がうかがえます。二の郭のアーチ門は沖縄最古と言われ、頂部の合わせ部に三角形の楔石(くさびいし)が使われているのが特徴です。

中城城跡

琉球王国統一前、14世紀に本部半島(もとぶはんとう)一帯を支配した北山王(ほくざんおう)が居城とした今帰仁城跡(なきじんじょうあと)は大小10の郭で構成された大城郭で、初期は木柵で囲まれていましたがのち石垣に代わりました。石垣は石を加工せずに積み上げる野面積(のづらづみ)で、地形に沿って曲線を描きながら1.5㎞にもおよびます。統一後は首里城の支配下におかれ、その後の薩摩侵攻で廃城となりました。

今帰仁城跡

グスクはもちろん敵の襲撃に備えた堅固な防衛施設ですが、どこでも城内には祭祀のための御嶽があり人々に敬われていました。そのため近世に入り城としての役割を終えてのち、グスクは御嶽として信仰され、城主がいなければ城下の集落によって守られ、祈りが捧げられてきました。グスクはまさに沖縄ならではの石の文化を象徴する偉大な遺産で、今なお人々の心の拠りどころになっています。