平安時代に皇族の熊野御幸が盛んになると、武将や歌人、庶民まで多くの人が熊野詣に出掛け、中辺路は「蟻の熊野詣」といわれるほど賑わいました。歴史に名を残す多くの人物が辿った祈りの道を、この地をよく知る語り部と一緒に歩きました。

後白河上皇や後鳥羽上皇、平清盛も通った熊野詣の公式ルート「中辺路」を辿る
発心門王子から本宮まで約7kmの道のりを3時間30分ほどかけて歩く。500mごとに番号道標があり、現在地がわかりやすくなっている。
杉や檜の植林やのどかな集落を抜けながら熊野本宮大社を目指す。

貴族が熊野を目指した由緒ある中辺路。

熊野に向かう道は大きく分けると4ルート。伊勢詣から熊野詣に向かう伊勢路、高野山から来る小辺路、修験者が吉野から駆けた大峯奥駈道、そして大阪から皇族が通った紀伊路から中辺路に抜ける道です。いずれも熊野本宮大社に続いており、まず本宮を参詣してから、熊野速玉大社、熊野那智大社の三山をめぐるというのが熊野詣の一般的な順路です。

今回歩いたのは、中辺路の一部分。紀伊半島沿いの紀伊路から山に分け入り、いよいよ熊野本宮大社が近づく、という旅の終盤地点です。

「皇族や貴族は京都から淀川を船で下り、大阪の淀川河口付近から熊野を目指しました。道沿いに王子という神社をいくつも設け、休憩所や宿泊地として利用していました。だから、王子があるのは紀伊路と中辺路だけなんです」

そう説明してくれるのは、語り部(「熊野本宮語り部の会」に所属する熊野古道を歩くツアーの案内人)の加藤恵美代さん。地元で生まれ育ち、熊野古道の歴史に精通したベテランです。スタート地点の発心門王子は、ちょうど熊野本宮大社の神域の入口になるところ。王子の裏にはかつて尼寺があり、約800年前に藤原定家が泊まったことがあるそうです。

発心門王子は、古道沿いに数ある「熊野九十九王子」のなかでも五体王子のひとつに数えられる格式ある王子。

「藤原定家は後鳥羽上皇の熊野御幸に随行しており、上皇が到着する前に宿や食事の手配をしていました。その頃の定家は40代で、当時としては高齢。熊野詣の旅がよほど厳しかったようで『熊野御幸記』には、つらいとかきついとか、たくさんの愚痴が残っていますよ」

熊野御幸に訪れた皇族は23方おり、合わせて141度参詣しています。最も多いのが後白河上皇の34度。続いて後鳥羽上皇が28度訪れていますが、承久の乱に敗れて島に流刑されなければ後白河上皇を抜いていたかもしれないそうです。平成4年には皇太子殿下が熊野古道を歩かれており、皇室の参詣は鎌倉時代以来、実に771年ぶりのことなのだとか。

「平清盛が平治の乱の知らせを聞いたのも熊野古道です。清盛が熊野詣に出掛けたすきに、源義朝が内乱を起こしたんですね」

加藤さんの話を聞きながら古道を歩くと、難しい歴史の話がわくわくした物語に感じられてきます。

古道は整備されて歩きやすく、江戸時代に作られた石畳も美しい

富める者が貧しい者を助けながら歩いた祈りの道

大阪からの熊野詣は往復1か月もかかる過酷な旅でした。しかし、道のりが厳しいほどご利益があると信じられ、江戸時代に入ると、貴族だけでなく、庶民の女性や子どもまで険しい山道を歩きました。古い資料には、倒れていた目の不自由な女性を貴族が介抱し、村まで連れていったという記述が残るそうです。

「庶民の女性が貴族と接することなど、当時では考えられないこと。でも、熊野古道ではそういう機会が当たり前にありました。途中の関所では通行料が掛かり、払えぬ者がいると、通り掛かった裕福な一行が支払ってあげたりしていました」

富のある者は貧しい者にほどこしを与え、徳を積みながら熊野本宮大社を目指したそうです。巡礼の旅はつらい道のりなれど、助け合いの心にあふれ、いかにも祈りの道らしく感じます。

古道は点在する集落を結ぶ生活路でもあり、田畑が広がる牧歌的な雰囲気も味わえます。村の手前で行き倒れた僧侶を哀れに思い、村人が建てたという弔いの地蔵もありました。熊野古道は世界遺産でありながら、人の暮らしや温かさに満ちています。

行き倒れの僧侶を弔ったといわれる地蔵。どの道も人の思いが交差している

歴史のロマンをかみしめ、晴れやかに本宮へ。

古道は時代を経るごとに整備され、江戸時代に作られた石畳も残っています。月日を重ねてすっかり自然となじんだ道を、一体どれほどの人が踏みしめていったのでしょう。 伏拝王子がある峠に着くと、かつて熊野本宮大社が建っていた大斎原が見渡せます。明治時代の洪水で社殿が流され、現在、大社は川近くの山に移されており、旧社地には大鳥居があります。苦労して登った当時の参詣者はやっと臨めた熊野の神々に「伏して拝んだ」そうです。

「和泉式部はここまできて月のものになってしまい、参拝できないと嘆いて『晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき』という歌を詠みました。王子には供養塔が残っています」
王子から大社を眺めながら歌に込められた悲しみを想像し、同時に「やはり高名な歌人の表現は素晴らしいな」と感心したり。熊野古道は随所に歴史のロマンがちりばめられています。今回歩いた道のりは古道のほんの一部ですが、それでも十分心が洗われ、ゴールの熊野本宮大社に着く頃にはすっかり晴れやかな心持ちになっていました。

伏拝(ふしおがみ)王子からの展望。旧社地は「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれ、現在は高さ33.9mを誇る日本一の大鳥居が立っている。
熊野本宮大社。以前は熊野川の「大斎原」という中州に鎮座していたが、洪水で多くが流失して現地に移築。熊野古道は境内の裏手に着く。
和歌山県田辺市本宮町本宮