四季の彩り豊かな日本は美しい庭園づくりに適した自然に恵まれ、各地に優れた作品がいくつも残されています。それぞれに確かな理念とこだわりがあり、つくり手の熱意がにじみ、訪れる人々を魅了します。全国の素晴らしい名庭を訪ねてみませんか?
文 : 藤沼 裕司 Yuji Fujinuma / 写真 : 中田勝康 Katsuyasu Nakata
栄華を極めた奥州藤原氏の夢見た浄土世界
平安時代の終わりに、都から遠く離れた陸奥の地に花開いた絢爛な仏教文化。その担い手、藤原氏三代は領国統治の規範を仏教に求め、豊かな経済力を背景に理想とする国土の建設に邁進しました。そして、莫大な私財を注ぎ込んで中尊寺や毛越寺などを再興、平泉の町は無数の堂塔伽藍が燦然と甍を連ね、100年にわたり奥羽の中心として栄えました。
毛越寺は2代基衡と3代秀衡により堂塔40、僧坊500を数える壮大な伽藍が整えられました。同時に大規模な庭園も造成され、さながら浄土を地上に表現した楽土が実現しました。この頃、近くの観自在王院や無量光院にも同じ浄土様式の庭園がつくられましたが、中尊寺の庭園だけはなぜか未完成のままでした。
鎌倉時代に入り、藤原氏は源頼朝に攻められて滅亡、栄華を極めた陸奥の都はことごとく灰燼に帰しました。江戸時代、この地を訪れた松尾芭蕉はその俳諧紀行『奥の細道』に、荒涼とした光景がむなしく広がる様子を慨嘆まじりにつづっています。
汀の曲線美を引き立てる池泉の石組
昭和に入ってから、長らく放置されていた庭園に2度にわたり本格的な発掘調査が行われました。その結果、金堂を中心に諸堂宇を備えた大規模な伽藍の配置が明らかにされ、南大門から中島をつなぐ二つの橋で大泉が池を対岸に渡り、一直線に金堂にいたる道筋が確認されました。
さらに昭和末の調査では、池の汀線はすべて洲浜になっており、それに続く陸の部分も広く石敷で造成されていたことが明らかにされました。また、金堂東側では発掘により遣水の流路跡が見つかり、その幅は1・5メートル、長さは70メートルを越え、いくぶん蛇行しながら北から南に流れて池に注ぎ込んでいました。
園内中央に広がる大泉が池の汀はゆるやかな曲線を描き、池の南東岸ではいくつもの石組が崩れながら荒磯風に組まれています。その先の玉石で築かれた岩島には、斜めに組まれた立石が力強く印象的な姿でたたずみ、園内どこからでも目に入る中心石のような役割を果たしています。池の東岸、荒磯風石組のすぐ北寄りの岩島では洲浜風の汀線が優美な曲線を描き、一方、西南隅の築山には荒々しい枯山水風の石組が築かれて対照的な景観を形成しています。
今日、園内は平安期庭園様式の貴重な遺構として整備され、季節ごとに栄耀栄華を極めた昔を再現する雅びな催しが繰り広げられています。