老舗は、その歴史と共に日本文化の担い手としての役割を果たしてきました。ここでは、各地にある老舗を訪ねて、そこにある物語をお伝えします。
今回は、日本の洋食文化のパイオニアとして、食文化の探求を続けている東京銀座の資生堂パーラーを訪ねました。

食を文化として発信

銀座の中心部を東西に走る中央通りに面した8丁目の角に、端正な形態ながら赤褐色の落ち着いたたたずまいがひと際目を引く東京銀座資生堂ビル。ここを本店とする資生堂パーラーは明治維新により欧化主義の風潮が高まる中、いち早く西洋料理の探求、普及に努めながら食を文化として発信してきました。その提供する味は時代とともにさらに洗練され、高級志向のこの街にしっかり地歩を固めて、うるさ型の食通たちを堪能させています。

資生堂の創業

創業者福原有信(1848-1924)は、幕末の混乱期に現在の千葉県館山市に生まれました。成長してのち幕府医学所で西洋薬学を学び、明治に入ってから今日の東大医学部の前身大学東校や海軍病院薬剤部に勤務したのち、1872年、わずか24歳のとき銀座に調剤薬局を開業しました。これが今日の資生堂の始まりで、1897年には化粧水「オイデルミン」を開発し事業を軌道に乗せました。そして広く海外にも目を向け、1900年にはパリ万博を見学しアメリカ経由で帰国、この旅行による見聞が彼の事業構想に大きく関わったことは容易に察せられるでしょう。その後1907~09年まで、日本薬剤師会の第3代会長を勤めました。

1902年。(左)アメリカから取り寄せたソーダ水製造器 (右)当時の資生堂の外観

日本で初めてのソーダ水とアイスクリームの販売

有信はただ薬業の世界にとどまるだけでなく、1902年には薬局の一隅に簡易な飲食スペース、ソーダファウンテンを設け、日本で初めて製品化に成功したソーダ水とまだめずらしかったアイスクリームを販売、のちに「資生堂パーラー」として発展する飲食業をスタートさせました。その頃、新橋の芸者さんが来店すると、ソーダ水1杯につき景品としてオイデルミン1本をつけたことが評判になり、以来、ソーダ水はすっかり銀座名物になって連日たくさんの客が店頭を賑わせました。

(左)1935年頃の店舗看板 (中・右)永く愛されている味「アイスクリーム」「アイスクリームソーダ」

文豪達も愛した資生堂パーラー

当時、ほとんどの日本人が未知だったこの飲み物について、作家の谷崎潤一郎(1886-1965)は「冷たい、壮快な、胸の透き徹るような液体」と好意的に感想を述べています。また、森鴎外(1862-1922)はしばしば子供を連れて来店しましたが、医師であり衛生学の権威でもあった鴎外は当時の衛生状態に不安を抱き「資生堂以外は危険」と考えて、子供たちにはここのアイスクリームしか食べさせなかった、とのちに長女茉莉(1903-87)が厳格だった父のエピソードを語っています。

《左)1928年資生堂アイスクリームパーラー開設時の案内状。(右)戦前使用されたお持ち帰り用のアイスクリームボックス(レプリカ)。

創業者の新しい価値観への探求心

1923年9月、関東大震災により首都圏は壊滅状態に陥り、資生堂もまた店舗は全壊、製造施設などいっさいを失ってしまいました。仮店舗での営業を再開したのはそれから2カ月後でしたが、仮とはいえ店舗デザインには意を尽くし、パリで活躍する洋画家川島理一郎(1886-1971)を登用して外観の配色から室内では細部にいたるまで意匠を凝らすなど、食を豊かにする空間づくりへの努力を怠ることはありませんでした。このような空間づくりへのこだわりは、以後店舗が大型化するにつれますます拍車がかかり、増改築のたびに設計は当代一流の建築家に委ねられました。

関東大震災からの復興

1923年9月、関東大震災により首都圏は壊滅状態に陥り、資生堂もまた店舗は全壊、製造施設などいっさいを失ってしまいました。仮店舗での営業を再開したのはそれから2カ月後でしたが、仮とはいえ店舗デザインには意を尽くし、パリで活躍する洋画家川島理一郎(1886-1971)を登用して外観の配色から室内では細部にいたるまで意匠を凝らすなど、食を豊かにする空間づくりへの努力を怠ることはありませんでした。このような空間づくりへのこだわりは、以後店舗が大型化するにつれますます拍車がかかり、増改築のたびに設計は当代一流の建築家に委ねられました。

前田健二郎設計の新舗による新たなスタート

震災後の新たなスタートは1928年、前田健二郎(1892-1975)の設計による新店舗は木造2階建てで、外観は1階部分に大きなショーウインドー、2階部分では直径2mもの円形窓が人目を引きました。内部は吹抜けで天井にはシャンデリアが輝きを放ち、客席から見上げる正面2階部分にはオーケストラボックスが設けられていました。このとき商号にしたのは「資生堂アイスクリームパーラー」、人気商品アイスクリームの文字をあえて入れることで人々の関心をいっそう集めることになりました。そのアイスクリームは当時すでにテイクアウトも可能で、途中で溶けないように特殊加工された容器も開発されていました。

人気メニューはカレーライスとオムライス

まだ一般家庭では縁遠かった本格的な西洋料理を提供するようになったのもこの頃からで、人気メニューはカレーにオムライス、少しあとから当店発案で今も主要メニューのひとつミートクロケットが追加されました。スタッフはシェフに次長以下コック10人、ボーイ15人はすべて男性、小学校を卒業したてのボーイたちは詰襟、金ボタンの白コート姿、みなイガグリ頭でした。料理の他、菓子類では花椿ビスケットやチーズケーキにチョコレート、レストランメニューを家庭で楽しめるカレーやスープ類のレトルトフードにオリジナルワインなどの製造も始まり、銀座ならではのプレゼントとして人気を博しました。

資生堂のロゴマークの原型に

このビスケットにかたどられた花椿は、今ではよく知られている資生堂のロゴマーク。1915年、椿をモチーフにゆるやかな曲線が特徴のアール・ヌーヴォーの表現にならってデザイン化したもので、現在のものでは2本の花茎のはかなげにゆらめく曲線がまさにアール・ヌーヴォーを物語っています。1937年に創刊されたPR誌のタイトルも『花椿』。月刊誌として2016年6月まで通巻813号を数え、その後紙とWEBによる季刊誌として再スタートして2019年春現在通巻822号を数えています。その内容は化粧品PRのための美容やファッションを中心に、食やアートに旅、その他暮らしに関わる広い分野に及んでいます。

資生堂パーラービルの完成

1962年には地上9階、地下3階の資生堂会館が落成、設計は国立近代美術館や東宮御所を代表作とする谷口吉郎(1904-79)で、ビルの高さ50mは当時の銀座では一番でした。谷口の特徴は日本古来の素材や意匠を巧みに近代建築に融合させた作風で、ここではエレベーター扉に京都妙心寺の帳に染められた金襴椿模様をあしらい、各階の照明器具には彫金による花椿が施されていました。1973年には大々的なリニューアルにより「資生堂パーラービル」として生まれ変わり、フランス料理の「レストランロオジエ」と「バーロオジエ」、喫茶室「サロン・ド・カフェ」が、さらに1991年には地下1階に「レストランバラターブルシセイドー」がオープンしました。その6年後の1997年、資生堂パーラービル改装のため一時閉店し、これに伴い「資生堂パーラー銀座4丁目店」「資生堂パーラー8丁目銀座ショップ(フーズショップ&ティールーム)」の2店舗が同時にオープンしました。

食と文化の情報発信基地として新たにスタート

資生堂パーラーが今日の姿になったのは2001年、建物はスペイン人建築家リカルド・ボフィル(Ricardo Bofill,1939-)設計による地上11階+塔屋、地下2階で、ビルの名称を「東京銀座資生堂ビル」と改め、“銀座の灯台”の役割を担う食と文化の情報発信基地として新たにスタートしました。ビルの赤褐色はかつての銀座レンガ街のイメージ、あるいはボフィルがサハラ砂漠で見た砂丘や民族衣装の色を再現したともいわれ、ビルが林立する一帯にあってひと際異彩を放っています。内部は地下1階に資生堂ギャラリー、1階は洋菓子販売のショップ、3階「サロン・ド・カフェ」、4、5階の吹抜け階にレストラン、9階は多目的ホール、10階にレストラン「ファロ」、最上階は「バーエス」になっています。

 

資生堂パーラー 銀座本店

東京都中央区銀座8-8-3 東京銀座資生堂ビル 4F・5F