このシリーズでは、半世紀にわたり約3700日、重荷を背負って中央アルプスの山中や稜線を歩き、自然を見続けた経験と体験をもとに、中央アルプスの名峰をレンズを通して学んだカメラ目線でめぐり、山岳地帯の自然界に存在する滝やお花畑や森林や動植物や自然現象にまで視点をあて、紹介していきます。 
今回は、要害の巨大花崗岩峰「宝剣岳」です。(津野祐次)

中央アルプス(宝剣岳 ほうけんだけ 2931m)

宝剣岳は長野県南部の宮田村、駒ヶ根市、上松町の境に座る名山。山頂の西側は通称地獄谷と名づく断崖絶壁が、東側は千畳敷と呼ばれる広大な窪地が、南北側は険しい岩稜が続きます。このように宝剣岳はぐるりと岩の砦に囲まれた要害の巨大花崗岩峰となっています。

標高2612mの千畳敷まで、標高差約1000mをいっきに上る駒ヶ岳ロープウェイが中御所渓谷に架けられたのは昭和42年の7月。麓のJR飯田線駒ヶ根駅から登山バスとロープウェイを乗り継ぎ、約1時間で上がれるメリットは大きく、多くの登山者やハイカーを運び続けています。

駒ヶ岳ロープウェイの山頂駅・千畳敷を出ると、雲上の楽園が広がり、遊歩道を歩けば夏の比類なき高山植物群落と、秋の血の滲むような真紅の紅葉が見られます。豊かな高茎草原のお花畑や、寒冷な気候に変形して育つ造形的なダケカンバとナナカマドが紅葉する自然豊かな千畳敷。その背後に屹立する宝剣岳との山岳景観は、山と溪谷社が発行した日本の絶景百選の上下巻に挙げられているほどです。

主脈に上るには、千畳敷駅の西側出入口の前に建つ駒ヶ岳神社を左、あるいは右に延びる登山道を入リます。左は極楽平を経て、宝剣岳南稜に取り付くコースで、手強い岩稜を登攀する中級以上の登山者の領域となります。右は千畳敷の西側を北へとトラバース(横移動)し、八丁坂と呼ばれる急峻な斜面をジグザグに高度を上げて登り、乗越浄土を経て宝剣山荘の南方から宝剣岳北稜の岩壁を登攀するコースです。こちらが一般的で多くの人が利用します。途中、中間点のオットセイ岩のすぐ下にお花畑が広がり、ハクサンイチゲやシナノキンバイなど大きな花の群落が見事で、千畳敷よりも約1週間早い開花となります。八丁坂の上部には駒ヶ岳周辺の頂稜にのみ咲く特産種のコマウスユキソウ(ヒメウスユキソウ)が純白可憐な姿で迎えてくれます。

乗越浄土から右へ伊那前岳までの区間は、宝剣岳を望む展望台といえる尾根となっています。朝の太陽光を受けて輝く宝剣岳は、特に雪を抱いた冬が魅力的で、朱色や紅色に染まる光景はまさに絶景といえるでしょう。

宝剣山荘付近から望む宝剣岳は、奇岩・天狗岩を従えた山容が圧巻です。さらに北へコースをとると中岳があり、その絶頂からの宝剣岳も素晴らしく、鋭い三角錐の宝剣岳の右奥に空木岳や南駒ヶ岳が、さらに三ノ沢岳が大きく望めます。

宝剣岳山頂からの展望は360度の大パノラマが得られ、東に南アルプスと八ヶ岳と富士山、西に御嶽山と遠く白山、北に駒ヶ岳と北アルプス、南に空木岳や南駒ヶ岳へと続く中央アルプス主脈の名峰群が望めます。

宝剣岳は山容の険しさから信仰の対象とされ、江戸時代末期には錫杖嶽と記載された絵図が残り、文化年間には下諏訪の寂本行者が鉄製の錫杖を奉納した記録が残ります。不動尊や太刀剣も奉納されていたとする記録も存在するといわれます。その後、剣ヶ峰を経て宝剣岳と変革を辿ったようです。周辺には極楽平、地獄谷、乗越浄土、賽の河原など、山岳信仰を彷彿とさせる地名が残ることから、地元民の篤い信仰を寄せる対象の山だったに違いありません。その証拠に山頂には天之手力男命が祀られています。天之手力男命は高天原の神として「天岩戸」伝説に登場する怪力の神であり、古事記に登場する天照大神を守護した神だったのでしょう。

千畳敷は、木曽駒ヶ岳山頂周辺の雪食凹地とともに氷河時代の遺産としてその価値が認められ、将来に渡って残すべき存在として、中央アルプス全域と木曽の「寝覚の床」、「田立の滝」群を含め国定公園として2020年3月末に指定されました。

2020年4月5日現在、駒ヶ岳ロープウェイは工事のため運休していますが、高山植物が開花する夏までには運行の予定とか。ぜひ多くの人が訪ね、学習の場となって欲しいと願います。 

彩雲と岩峰

冬から春に季節が移行するときは一進一退で初夏へと進みます。けれども時として大陸から一級の寒気団がやってくると氷の粒が密集した雲が絶頂付近で発生し、その雲を太陽光が通過することで回析現象が起こり彩雲として現れます。彩雲は景雲・慶雲・瑞雲とも呼ばれ。仏教と関わりの深い太陽光象のひとつといわれます。この写真は、宝剣岳南稜の岩峰に現れた彩雲ですが、初夏や初冬の頃に現れやすい現象のひとつです。

残雪の岩峰と岳樺

5〜6月の千畳敷は、強い太陽光線よりも降雨によって残雪は減ります。厳冬期の7〜8mに及ぶ積雪は高山木の岳樺をすっぽり覆い尽くし、初夏になると少しずつ樹姿が現れ、春を待つ木立の佇まいが、陽光に輝いて印象的です。背後に聳える宝剣岳は頂上から雪が溶け始め、黒々とした絶頂が際立っています。岳樺は標高1500m付近で白樺と岳樺に生息域が分かれ、下方は白樺が上方は岳樺の領域となります。また白樺の幹はツルツルした樹皮ですが、岳樺はゴツゴツした樹皮です。

森林限界付近では多量な積雪や雪崩が起こるため、樹形は変形して樹皮は厳しい寒さから身を守るために進化したのでしょう。

7月上旬〜8月中旬の宝剣岳山頂部は、萌える若葉の植物や矮性低木が岩峰を彩ります。急峻な山肌にへばり付いて生息しますので、岩壁が鮮やかな緑色に彩られます。この時期、登山者は多くなり、好天時は山頂に立つのに待ち時間が生じるほどです。岩稜や岩壁の要所に鎖が架けられ、あるいは手がかりが打ち込んであります。険しい岩山に違いないので、縦走するには三点支持(手足4本のうち3本は必ずスタンスを得て体を支える)を確実に守って越えることがポイントです。また強風時は登攀や縦走を避けた方が無難でしょう。

満点の星空

標高2612mの千畳敷は空気が澄んでいるので星は頭上近くに見えます。まるで昆虫網ですくえそうなほどザクザクの星の群れが輝きます。天の河が天空に流れ、下界では決して見られない星空が開けます。デジタルカメラが出現してから感度を高く設定できるので、三脚に乗せれば誰でもスローシャッターで撮影することが可能です。レンズの絞りを開放にしてもピントは合います。フィルムカメラの頃は、フィルムが平面性を保って装填されないので、絞り機構を開放に設定すればピントは外れ、シャープな画像は得られません。その点、デジタルカメラは援軍となってくれます。

霧に霞む岩峰

宝剣岳南稜の幾つもある岩峰の高点から宝剣岳の絶頂を捉えています。ミヤマハンノキが渋い色調で黄葉し、霧の出現によって見え隠れする宝剣岳の穂先と、太陽光線が雲間から射し込むチャンスを逃さずシャッターを切っています。写真は被写体を見つけ構図が決まっても、シャッターを切るタイミングによって、出来あがる写真のイメージはガラリと変わります。中央アルプスは南北に延びる山脈のため、東西側の気温差によって雲や霧の発生する確率が高く、その時々で霧や雲の様相も変化します。

錦秋の岩峰

宝剣岳と伊那前岳の鞍部を乗越浄土と呼びますが、そこから伊那前岳方面へと尾根上を東へ進むと、岩稜が現れます。その地点から宝剣岳を望むと千畳敷から迫り上がる霧や、木曽側から上昇した温まった大気が雲に変化し、様々な雲が去来します。秋の紅葉期は、矮性の樹木が紅葉して彩りを添えてくれるので色彩味溢れる山岳景観が期待できます。宝剣岳のピラミダルの山容を霧や雲や紅葉が彩り、その相乗効果による錦秋の山岳景観はこの季節だけの特権といえましょう。

宝剣岳の東壁がすっぽり雪に覆われる条件は稀です。この日は3日間降り続いた降雪の後…。静かに降り続くことが皆無の稜線ですが、この時は風が無く、しんしんと降り積もった朝でした。空気中に水分の飽和量が多かったせいで、日の出の太陽は宝剣岳の雪壁を紅色から朱色に変えつつ色彩を変化させ、白銀の世界へと落ち着きました。それと共に耐えきれなくなった東壁の雪は雪崩れ落ち、黒々とした岩肌へ変わりました。チャンスはわずか20分ほどの短いものでした。

雪煙に残照の岩峰

宝剣岳の北方、賽の河原と呼ばれる広く平坦な地からブリザートに見え隠れする宝剣岳を捉えています。木曽側から吹き上げる風は風速40m以上、大きな岩に身を寄せて腕を固定しカメラを構えます。三脚を立てても一瞬の風で飛ばされてしまうからです。マイナス20度以下の酷寒の中、サラサラの粉雪が雪原や雪をまとった岩壁から吹き飛ばされ、霧が発生したように宝剣岳が見えなくなります。ただひたすらシャッターチャンスを待ちます。

賽の河原は、亡き人の冥福を祈ってケルンの石積みが行われ、祈りの聖地にふさわしい地です。冬ばかりか夏や秋も絶景が見られます。