江戸という都市を背景に、さまざまな創意工夫に彩られた独自の文化が生まれました。この文化をカタチづくるモノや仕組みは、よりよい社会や生活を実現するために、計画・設計、つまりデザインされたものです。
衣食住から街づくりにまでおよぶこの江戸デザインを現代の私たちの視点で俯瞰し、より豊かな未来の暮らしへの示唆を得よう、というのが、江戸デザインについて考えることの目的です。
人工都市建設のために集められた労働力
仕事を求めて単身赴任が急増、男性が人口の60%超
江戸時代中期には人口100万人に達し、世界一の巨大都市となった江戸。 その面積の約70%が武家地、残りの面積の約15%ずつが寺社地と町方地という構造であった。
町方で暮らす町人が約50万人で、そのうちの約80%が長屋で暮らす庶民階層だった。
高層建築などのない時代、家屋は平屋建ての長屋が中心である。長屋は江戸のワンルーム住宅で、床の部分は平均4畳半、ここに40余万人が暮らしていたとなると、ワンルームに平均約3・2人が暮らしていた計算になる。つまり超過密都市だったのだ。
そして、江戸は男性比率の高い都市であった。それは、治水、埋め立てや江戸城の普請など、全国を支配するための都市機能の整備が急ピッチで進められ、多くの人足が集められたためである。諸国から仕事を求めて農家の次男、三男など単身労働者が移り住んだので男性比率が極端に高くなり、江戸中期の男女比は3対2となっていた。
超過密都市「江戸」で頻繁に起こる大火災
明暦3(1657)年に起こった「明暦の大火」後も、過密都市江戸では大火災が幾度となく発生した。八代将軍・徳川吉宗はそれ以前からあった武家火消し(大名火消し・定火消し)に加え、町方による町火消しの編成を命じた。 町火消しは町方地の地割ごとに編成。大川(現在の隅田川)の西を担当する「いろは組47組」、東の本所・深川を担当する「16組」が誕生した。各組は火事場での識別を容易にする目印として装束のほかに、纏(まとい)、幟(のぼり)を持った。防災システムの総合的なデザインである。
火消しの頭領は、颯爽とした印象から、与力、力士とともに「江戸三男」として庶民の人気を集めた。
人気の「江戸三男」は、与力、力士と火消しの頭領
与力とは、禄高二百石の幕府役職の一般名称で、行政・司法・警察の行政官である町与力をいう。南北の町奉行所に25名ずつ配置され、配下に2名の町同心が付いた。捜査上、町方に扮するため町方風の髪型のものや、流行に敏感な伊達男もいた。江戸三男に数えられるのも納得である。 江戸三男のもう一つ、力士とはもちろん相撲取りのことだ。寺社建立など寄進目的で開催された勧進相撲が現在の大相撲の原型である。富岡八幡、回向院などの寺社境内で定期に開催された。ただし女人禁制で、女性の見物はNGだった。人気力士は大名のお抱えで、武士と同様に大小の刀の帯刀を許され扶持米が支給されていた。庶民の敬愛の対象であった。
江戸の三大娯楽と言えば「相撲、歌舞伎に吉原遊廓」
出雲の阿国が起源といわれる歌舞伎は、元禄期、江戸歌舞伎に市川団十郎が登場。上方の和事(わごと)に対し、江戸の荒事(あらごと)という芸風が生まれる。隈取りメイク、デフォルメ衣装、見得や六方が特徴で、豪快な演技は江戸っ子気質にマッチし、大変な人気を博した。 火災が頻発する江戸にあって、劇場のような大規模建築の消火は容易ではない。江戸後期、幕府公認の江戸三座、中村座・市村座・森田座が猿若町(浅草6丁目付近)に集約された理由がここにある。この移転により江戸歌舞伎の集客力は増大。黄金期を迎えるのだ。
文化・ファッションの発信地、オープンコミュニティー・吉原
江戸文化における吉原遊廓の存在感は大きい。男女比のバランスが悪かった江戸に置かれた幕府公認の遊郭で、当初は現在の日本橋人形町あたりにあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転した。 吉原は遊郭という面のほか、俳句、狂歌会や絵画品評会など文芸活動が盛んに行われ、文化サロン的の一面もあわせ持つ場所だった。身分・階層について厳格な江戸社会にあって、武士・町人という身分を排除したオープンなコミュニティーを形成していた。
才知と美貌を兼ね備える遊女の頂点は「太夫(たゆう)」、宝暦期以降は「花魁(おいらん)」と呼ばれ、その髪型や衣装は注視の的となり、まさにファッション・リーダーであった。吉原の文化・ファッション情報は、浮世絵・かわら版・出版物・演劇など、当時のメディアによって盛んに発信された。
江戸の水事情と庶民の社交場「湯屋」
徳川家康が関東支配の本拠地を江戸に定めた当時、海岸線は江戸城大手門近くまで迫り、現在の日比谷公園や皇居外苑あたりまで日比谷入江と呼ばれる浅海だった。そのため低地で井戸を掘っても、水質は塩分が多く飲料水には適していなかった。 そこで家康は、江戸の住人の生活用水を確保するために水道整備を行い、玉川上水と神田上水を中心に江戸の水道の基盤をつくっていった。
そんなわけで水は非常に貴重であったので、庶民層は湯屋(銭湯)で入浴していた。長屋の住民はもちろん、江戸一番の大店・三井越後屋呉服店(日本橋三越の前身)でさえ、家に風呂がなかったという。
しかも江戸は粘土質の関東ローム層、道路は乾けば埃っぽく、雨が降るとぬかるんでしまう性質である。埃まみれ・泥まみれは日常であったので、さっぱりするための風呂屋は大繁盛であった。
ただし、湯舟は男女別ながら、平土間の脱衣場から洗い場の仕切りもなく、混浴同然の状況であったという。また、湯屋の二階は、男性専用の休憩スペースがあり、茶のサービスまで完備、囲碁や将棋を楽しむ庶民の社交場として人気が高かった。