風土記や記紀神話に記された神の地を巡ると、陽光の輝きや清涼な水の流れや木霊する木や苔むす岩など、原生の自然の中に存在する万物に、私たちの祖先は神の依代(よりしろ)を見出してきたことを知る。それを核として神殿が築かれ、神域が整えられていったと思えてくる。
神社には、神話から続く歴史と伝統に基づいた風景が脈々と受け継がれている。その風を肌に受けつつ神々の杜を訪ねると、神が鎮座する無限空間からは、歴史と日本文化が香り立つようだ。(石橋睦美)

無音の神秘さに心が揺さぶられる

鵜戸神宮(うどじんぐう)の神殿は砂岩の海蝕洞窟の中にある。洞内に入ると、薄闇の中から仄かな灯りに照らされた神殿が迎えてくれる。その神の座には荘厳さが漂い、ここが神話の世に誘われる神域なのだと知らされる。

私が鵜戸神宮を訪れたのは、平凡社刊の「神々の杜」の取材をしていた13年前になる。その日は、初冬の冷たい雨が降る日であった。ただ堂内へ入ると、岩肌を激しく打つ雨音は微塵も聞こえてこない。まさに無音の神秘さに心が揺さぶられたのである。神殿に手を合わせ裏手へ回り込むと、鵜戸神宮の起源を実感する光景を目にする。

祭神は鸕鵝草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)である。山幸彦の名で親しまれる火遠理命(ほおりのみこと)と、豊玉毘賣命(とよたまひめ)との間に生まれた神で、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと)の父神である。いわゆる初代天皇である神武天皇の父神にあたる。

鸕鵝草葺不合命の誕生秘話が鵜戸神宮の由来を物語る。お産が近づいたことを知った母神の豊玉毘賣命は、海辺に産屋を作ろうとしたが間に合わず出産してしまう。お産はけっして見てはならないと火遠理命に言い含めるが、我慢できず覗き見てしまう。それが母と子の別れになってしまう。

綿津見神の娘である母神は、じつは鰐(さめ)だったのだ。それを知られた豊玉毘賣命は、妹神の玉依比売命に子神を託し海坂を塞ぎ、父神の居る海神宮へ戻ってしまう。だが母神は乳房を残してゆく。洞窟の最も奥にある乳岩がそれで、子神は岩から滴り落ちる水滴を飲んで育ったとされる。母神が子神に残した愛情の清水は、今なお枯れることない。

鵜戸神宮の神殿となる洞窟へは、灰白色の露岩を削った参道をゆく。朱色の欄干に縁取られた参道は、周囲の岩肌に調和して、神坐す場へ誘ってくれる。神殿のある洞窟入り口近くの広場から波打ち際を見下ろすと、亀の形に似た岩に目が注がれる。竜宮から姫神を乗せてきた亀が役目を果たし岩になったのだという。亀型の岩の背にはしめ縄で縁取られた窪がある。参道から運玉を投げ、窪に入れば願いが聞き届けられる。そんな伝説に彩られた霊石亀石も、母神が残した愛の形見なのである。

<鵜戸神宮>

鵜戸神宮のご創建は、第十代崇神天皇の御代と伝えられ、その後、第五十代桓武天皇の延暦元年には、天台宗の僧と伝える光喜坊快久が、勅命によって当山初代別当となり、神殿を再興し、同時に寺院を建立して、勅号を「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」と賜った。
また宗派が真言宗に移ったこともあり、洞内本宮の外、本堂には六観音を安置し、一時は西の高野とうたわれ、両部神道の一大道場として、盛観を極めていた。
そして明治維新とともに、権現号・寺院を廃して鵜戸神社となり、後に官幣大社鵜戸神宮にご昇格された。明治を130余年経過した今日、全国津々浦々から、日本民族の祖神誕生の聖地を訪れる参拝者は、四時絶えることなく続いている。(鵜戸神宮ホームページより)

所在地:宮崎県日南市大字宮浦3232番地
電話.0987-29-1001/FAX.0987-29-1003

鵜戸神宮HP: http://www.udojingu.com

「鵜戸」地域:平成29年10月、鵜戸神宮一帯が国の名勝「鵜戸」に指定された。

写真・文: 石橋睦美 Mutsumi Ishibashi

1970年代から東北の自然に魅せられて、日本独特の色彩豊かな自然美を表現することをライフワークとする。1980年代後半からブナ林にテーマを絞り、北限から南限まで撮影取材。その後、今ある日本の自然林を記録する目的で全国の森を巡る旅を続けている。主な写真集に『日本の森』(新潮社)、『ブナ林からの贈り物』(世界文化社)、『森林美』『森林日本』(平凡社)など多数。