風光明媚な長野県には、歴史と伝説に包まれた数々の古道があります。このシリーズは、実際にその古道を一つ一つ訪ね、そこに綴られた物語をお伝えするものです。
今回は、江戸の五街道の中でも、最も昔の姿をとどめる木曽路です。緑深い山間の街道筋に軒を連ねる家々、人里離れた路傍には風雨で傷んだままの石仏や道祖神、里も野も潤いに満ちて詩情豊か、かつては旅人泣かせの二つの峠越えも今では爽快なトレッキングコースになっています。
木曽路の旅2回目は、奈良井宿から薮原宿へ、鳥居峠越えの旅です。木立の中に続く古びた石畳、風雨にさらされるままたたずむ馬頭観音に一里塚などが、いにしえの旅人の苦労を物語る峠越えの道。現代では道の整備も行き届き、国内外の多くの人が昔を偲びながら爽快なトレッキングを楽しんでいます。

奈良井宿⇒鳥居峠⇒薮原宿

名にし負う峠の頂上は木立に埋もれてひっそりと

奈良井宿の資料館の先で車道と別れて石段を登り、山腹を巻きぎみにしばらくたどると大きく迂回して登ってくる先ほどの車道と合流します。写真で見慣れた石畳はそのすぐ先で、古びた石の標識が立ち行く手を指示しています。

鳥居峠入り口。下の車道でも行けるが大きく迂回する分、山道のほうが早い

ここで再び車道と別れて山中に分け入り、うっそうとした木立の中に石畳のゆるい登りが600mほど続きます。それが尽きると道はいくぶん狭くなって山道らしくなります。枝尾根を乗越すところに来ると展望台への標識が立ち、道を少し外れた木立の中に東屋が建っています。木々が葉を落とす晩秋や芽吹き前にはここから中央アルプスが見えるそうですが、緑の盛んな季節では全く期待できません。

石畳の始まり。いよいようっそうとした深い森に分け入る。石畳のゆるい登りは600mほど続く
森の中のゆるい登り

その先、道は山腹を巻きながら次第に高度を稼いで峠まで続きますが、この間、何度も沢を横切らなければなりません。山腹の道は降雨や降雪で崩れたり、特に沢を横切る箇所ではたびたび寸断されて通行不能になりますので、その都度大変な手をかけて修復しなければなりません。現在では沢筋を横切る箇所にはすべてしっかりした木の橋が架けられて通行に支障をきたすことはありませんが、江戸の昔、現代と全く同じように完全に道の安全が確保されていたとしても、籠やウマに乗ってとなればどれほど大変だったことでしょう。

沢を横切るところでは木橋を架けて通行の安全が図られている。この先、頻繁に木橋を渡る
木橋があるのであまり感じないが、斜面はかなりの傾斜で切れ落ちている

京から江戸へ向かう場合、道は降りになり右手の谷側はかなりの傾斜で切れ落ちています。特に女性、徳川家に輿入れした姫君たち、それに参勤交代時の大名の婦女子たちは全く自らの足で歩くことなく、籠に乗りっぱなしで降りることができたのでしょうか。山道では籠の平行を保つのは難しく、女性たちの苦痛は並大抵ではなかったでしょう。困難は人間ばかりか重荷を負わされたウマも同様で、路傍の馬頭観音がそれを物語っています。

一里塚と、牛馬供養塔とその背後に馬頭観音像
奈良井から登ってくる車道と合流。合流した先が峰の茶屋

何度か沢を横切って進むと、道が少し開けた山側に東屋が建っています。昔の旅人がひと息入れた中の茶屋の跡で、菊池寛の『恩讐の彼方に』の舞台にもなったところです。物語は追われる身の男が愛妾とこの辺りに流れつき、旅人から金品を奪って暮らしたというもの。この下を流れる沢は、1582年(天正10)の木曽氏対武田氏による戦いでこの沢が死者でいっぱいになったことから葬り沢といわれています。しかし今はそんなおどろおどろしい気配は全くなく、この先少し傾斜がきつくなりますが快適な登りが続きます。しばらく登ると小さな流れがあり、カップが置かれていて冷たい水でのどを潤すことができます。

峰の茶屋。昔の旅人がひと息入れた中の茶屋の跡
休憩舎の中にはトイレも整備されている
沢水が引かれているが、冬は流れていない

さらに登って行くと石畳が現れその先で車道に合流します。車道のすぐ先に立派な休憩舎の建つところが峰の茶屋で、昔は馬方衆の利用が多かったため馬方茶屋ともいわれ、明治末の中央西線開通後も営業していました。沢から水が引かれトイレも整備されていて、冬枯れの頃にはこの辺りから奈良井の町並みや木曽駒ヶ岳(2956m)が見えるそうです。車道は1890年(明治23)に馬車道として開かれたもので、今でも塩尻市職員がトイレの清掃のためここまで車で登ってきています。

ここから車道は西に延び、尾根を越えるところは車1台が通れるほどに削られた切通しになって藪原側に抜けます。ちょうどその最高点と思われる道路脇に「鳥居峠SHORT-CUT ROUTE」と記した棒杭が控えめに立ち、ここが峠の頂上のようにも思えてしまいます。

鳥居峠(SHORT-CUT ROUTE)と記した棒杭。それを過ぎると一人が通れるほどの小径が続く

旧中山道とされるのは休憩舎で車道と別れ、右下に車道を見降ろしながら登る人一人が通れるほどの小径です。深い木立の中を登って御嶽信仰の明覚碑を過ぎ、山腹を巻きぎみに進むと藪原側へのゆるい降りになって明治天皇休憩所跡の碑が立つ小平地へ、そしてすぐ先で南へ尾根続きの峠山(1416m)の電波塔に通じる車道にあっけなく降り立ってしまいます。

一応、休憩所跡の碑の立つ辺りが1197mの鳥居峠頂上とされていますが、ここはただの山腹の小平地でとても峠といえる地形ではなく、しかも標識はなく標高を明示する標石も見当たりません。名にし負う歴史の峠越えにしては、いささか拍子抜けの感は免れません。

車道に降り立ち電波塔を背にして北に向かうと、すぐに奈良井から切通しを抜けてきた車道に合流します。合流した車道はここからいったん北東に向かい、緑の山肌にくっきりと痕跡を残しながら藪原市街に降りて行きます。この尾根筋は木曽川と信濃川源流の一つ奈良井川との分水嶺で、南北に別れる流れはそれぞれ太平洋と日本海に注ぎます。ここからはいよいよ木曽川源流域の旅路になります。

海外の観光客もチャレンジする歴史の峠越え

この一帯は切り開かれて車道が交差し旧道は不明瞭なため、明治時代に開かれた新道に入るとすぐにトチノキの群生するさわやかな森になります。

道は広くほとんど水平で、快適に歩を進めるうちに御嶽神社に着きます。御嶽信仰の隆盛期には御嶽山(3067m)の北の遥拝所として参拝者を集め、社前には茶屋も出て賑わいました。

御嶽神社。御嶽信仰の隆盛期には社前に茶屋が立って賑わった

石段を登り鳥居をくぐった奥に小さな社殿が建ち、その脇から前衛の山並みを越えて大きく横たわる御嶽山を遥拝します。ここが遥拝所と定められたのは鎌倉時代で、その後明応年間(1492~1501)に、木曽義元が松本平一帯を支配していた小笠原氏との戦いに際してここから御嶽山に戦勝を祈願し、勝利して鳥居を立てたことにちなんで、境界線上の峠を鳥居峠というようになったといわれています。その後、鳥居は戦火で失われ、現在のものは明治初期の再建です。

社殿の裏から急斜面を一気に降りると、木曽義仲旗上げのとき御嶽山に願文を書くのに使ったといわれる義仲硯水があり、さらに降って開けた場所に出るとベンチが置かれ、石の水槽に参拝のための御嶽手洗い水が引かれています。

御嶽手洗水

その先、ゆるい降りに入るとほどなくで丸山公園、小丘状に開けた一画に木のテーブルやベンチが置かれ大小の石碑が並びます。戦国時代の木曽氏対武田氏の古戦場跡の碑や、1688年(貞享5)にこの地を旅して「木曽の栃うき世の人の土産かな」と詠んだ松尾芭蕉のものなど数基の句碑が見られます。

丸山公園
丸山公園下より藪原市街
終わりに近いジグザグの降り

これから先は山腹につけられた道をひたすら降るばかり。途中木立が切れたところで藪原の町並みを間近に望み、さらに降って牛馬供養碑を過ぎてしばらくで車道に出ます。ここには案内板が立ち、クマ除けの鐘があります。クマ除けの鐘はここを含めて藪原側に3カ所ありますが、初夏の頃は全山鳴動させるかのようなハルゼミの大合唱で、はたして鐘の音がクマの耳に届くのかどうか…。

クマ除けの鐘。その先の石畳をひたすら下りる

車道を横切った先から150mほど石畳になり、カラマツ林を抜けると集落に入ります。その先は民家の間の急な坂道をひたすら降り、天降社、原町清水、御鷹匠(おたかじょう)役所跡を過ぎると、飛騨街道追分の標識があります。

坂を降りきったところが飛騨街道追分

飛騨街道はここから北西の奈川を経て、野麦峠を越えて飛騨高山にいたる道です。昔は道険しくウマの通行が困難なため、尾州陸おか舟ふねと呼ばれた奈川のウシの背で飛騨ブリなど魚介類や塩を運びました。ここから中央西線の跨線橋を渡り、江戸からも京からも35番目の藪原宿に入ります。

藪原側の峠道は奈良井側に比べて幅も広く、急崖をへつるようなところもないため、籠やウマでの通行もいくぶんは楽だったのではないでしょうか。ただ藪原側のほうが距離も長いうえに傾斜もきつく、特に宿場を出てからすぐに始まる急登は堪えたことでしょう。藪原側では外国の人ともたびたびすれ違い、中には賑やかに登ってくる女性グループもいて、この峠路への関心の広いことが伺えます。

*信濃路古道紀行 中山道・木曽路 その1 木曽路の入り口から奈良井宿へ

*信濃路古道紀行 中山道・木曽路 その4 妻籠宿から馬籠宿