「蟻の熊野詣で」と言われたほど、人々は極楽浄土を求めて、続々と熊野に向かいました。
熊野三山の神々は本地仏(神の本体とされる仏としての姿)を持ち、神と仏の顔で人々を救ったと言います。仏教の伝来とともに生まれた「神々と仏は同じ」であるという思想、神仏習合の聖地で、多くの人を惹きつけた熊野の信仰に触れてみました。

神と仏を隔てない神仏習合はかつて日本で根付いた信仰の原点

神話の舞台としても登場する熊野は、紀伊半島南部の深い山々に広がる霊場です。点在する3つの大きな神社を熊野三山と称し、平安時代には貴賤男女を問わず大勢の人が熊野を目指しました。

神話時代、神武天皇は紀伊半島の沖から光を見つけ、那智の滝にたどり着いた。神々しい水の流れは今も熊野の山中に輝く。

熊野には伊邪那美大神(いざなみおおかみ)、伊邪那岐大神(いざなぎおおか)、素戔嗚尊(すさのうのみこと)という熊野三所権現をはじめ、全部で12の神々が祀られています。さらに、それら12柱の神々に当てはめられた本地仏=伊邪那美大神は千手観音(せんじゅかんのん)、伊邪那岐大神は薬師如来(やくしにょらい)、素戔嗚尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)=などの名も連なり、神も仏も渾然一体となって、判然としません。しかし、これこそがかつて日本人に根付いていた「神仏習合」の考え。仏教の伝来は日本の神々と仏を融合させ、過去、現在、未来をも救ってくれるという教えが広まりました。「熊野には全ての救いがある」と、昔の人々はこの世の極楽浄土のように感じたのでしょう。

神道を国教化するために明治時代に発令された「神仏分離令」により、寺と神社が完全に隔たれた後も、熊野では神社と寺が隣接し、御祭神に配された仏名が残るなど、神仏習合の面影が残ります。もともと、自然界の全てに崇拝の念を持つ日本人。その原点が、熊野には今も息づいているのかもしれません。

——– 写真:熊野本宮大社(上)、熊野速玉大社(右下)、熊野那智大社(左下)を合わせて熊野三山と呼ぶ。本宮、速玉、那智と詣で、最後にまた本宮に詣でるというコースが平安時代には確立していたとされる。三社を結ぶ熊野古道には鎌倉時代の石段もある。——–

■熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮1110) http://www.hongutaisha.jp

■熊野速玉大社(和歌山県新宮市新宮1) https://kumanohayatama.jp

■熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1) https://kumanonachitaisha.or.jp

「那智参詣曼荼羅図」で熊野を歩く

戦国時代になり、参詣者が減ると、熊野比丘尼(くまのびくに)と呼ばれる尼たちが那智参詣曼荼羅図(なちさんけいまんだらず)を持ち、全国で布教を行いました。400年以上も前に描かれた図には、今も変わらぬ風景が散見されます。

現代の熊野比丘尼が案内する那智参詣曼荼羅図絵解きガイド

16世紀以降、熊野比丘尼たちは下の写真のような参詣曼荼羅図を持って全国を周りました。この曼荼羅図を往時のように絵解きをしながら解説してくれるのが那智参詣曼荼羅図絵解きガイドです。

那智参詣曼荼羅図絵解きガイド。400年前に描かれた参詣曼荼羅図の復元図を元に、熊野比丘尼の姿をしたガイドが絵解きガイドをしてくれる。

「スタートは、右下の補陀洛山寺(ふだらくさんじ)から。ふたりの白装束の夫婦を追いながら那智山巡りをしましょう。これは世界遺産で有名になった大門坂。こちらは、その手前に架かる振ヶ瀬橋。この橋は神域の入口ということで、橋の袂では今のうちにと、肉を食べている人たちがいますね」

現存する建築物や地名を交えながら淀みなく続く絵解きを聞いているうちに、400年の時を越え、当時の人たちと同じ目線で熊野を歩いている気分に。情報量の少ない16世紀、神仏のテーマパークのようなこの曼荼羅図を見て、誰もが熊野に憧れました。江戸時代になり、熊野ブームの再来に大きく貢献したそうです。

那智参詣曼荼羅図

■那智参詣曼荼羅図区割り説明

1.赤い着物の案内人と、白装束の夫婦を追いながら絵解きがスタート。補陀洛山寺からは、棺桶船に乗って浄土を目指す「補陀洛渡海」に出ようとする平維盛らが見える。

2.橋の袂で桜を見ている女性は和泉式部。月の障りになってしまったが、夢のお告げで参拝を許されたという。「熊野の神は貴賤男女を問わない」ことを伝えている。

3.熊野古道のクライマックスの一つとして人気の大門坂。かつては大きな門があったためこの名で呼ばれる。大門坂入口の目印となっている夫婦杉は、まだ小さかったのか、図には描かれていない。

4.ご神体として古来変わらず崇拝されてきた那智の大滝。三筋になっているのも現在と同じ。曼荼羅図では、滝に打たれて凍えそうになった文覚上人と、その両脇に不動明王の遣いで文覚上人を助けに来た童子が描かれている。

5.如意輪観音を祀る如意輪堂と隣接する那智大社。奥の5つの拝殿は現在も那智大社の奥に佇む(一般入場はできない)。さらに、八咫烏(やたがらす)が神武天皇を導いた後、この場で巨大な石になったという「烏石」も描かれている。

参拝を終えた案内人と白装束の夫婦が向かうのは死者の霊が登るといわれる妙法山。よく見ると、途中で夫婦が消えて案内人だけが残っている。「亡者の熊野詣で」を描いたストーリー性にも驚かされる。

信仰以上の意味も持っていた熊野の政治的な重要性。

「熊野は、京都から見れば山深い不便な場所に見えますが、海上交通の便は非常に良い。また、熊野三山が信仰の力で強大な軍事力も有していたため、政治的にも大変魅力的な土地だったようです」とは、熊野・那智ガイドの会副会長の大久保彰さん。

平安時代後期、後白河上皇や後鳥羽上皇らが幾度も熊野を詣で、熊野御幸という言葉までできましたが、その裏には信仰以上に政治的な理由があったのではないかというのです。

現世の浄土であり、政治的要所でもあった熊野。多面的なその顔は、神と仏の顔を持つ熊野の謎めいた神々とどこか重なるようです。

那智御瀧。熊野那智大社の別宮、飛瀧神社のご神体として崇拝されてきた滝。
落差133m、滝壺の深さは10m、毎秒1tもの水が流れ、落差、水量共に日本一。

一般社団法人 那智勝浦観光機構

〒649-5335 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町築地6丁目1番地1
観光案内所:JR紀伊勝浦駅前 Tel・0735-52-5311 営業時間:9:00~18:00(年中無休)
https://nachikan.jp