縄文時代、人と共に渡来してきたと考えられる日本の犬は、急峻な山や川が多い日本という島国の中で、独自の進化を遂げてきた。また、近年まで、彼らは比較的人の手による改良を経ず、強者同士が交配するという自然の摂理にのっとった子孫の残し方をしてきたため、世界的に見ても原始的な性質を色濃く残している。
ここでは、そんな日本の犬のうち、天然記念物にも指定されている柴犬、甲斐犬、北海道犬、紀州犬、四国犬、秋田犬の6種の日本犬について、そのルーツを探って行きたい。

文・写真 : 舟橋 愛 Ai Funahashi

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菊皇丸(2歳6カ月・牡)。四国犬らしい鋭い目と美しい赤胡麻毛が印象的なこの犬は、日本犬保存会全国展で若1組1席、壮犬組3席を獲得。既に堂々とした風格がある。(撮影協力・太海荘 鈴木久男氏

四国の山奥に残った狼を思わせる中型犬

第5回は、四国の山中で主に猪狩に使われていた四国犬にスポットを当てる。天然記念物に指定されたのは昭和12年6月で、現在に残る「天然記念物日本犬」6種の中では5番目の指定だった。登録当時は「土佐犬」と呼ばれていたが、土佐闘犬と間違われるため、昭和14年に「四国犬」と名称が変更されたそうだ。

ちなみに、「土佐犬」といわれただけに、四国の中でも高知県に主な産地があった。四国という土地を見ると、東に剣山・西に石鎚山と、西日本のナンバー1とナンバー2の高さを誇る山が鎮座し、その間を背骨のように尾根が走っている。このために高知県は、背面を山脈、前面を海に囲まれて、昭和13年に高松まで汽車が開通するまで、海路が交通の要という陸の孤島だった。

そんな不便さが犬に関しては功を奏して、日本犬保存の機運が高まり、有志による犬の調査が行われた昭和初期の頃に至っても、押し寄せる洋犬ブームの波から純粋な日本犬が守られていたようだ。

体高は牡で52㎝、牝で49㎝(その前後3㎝が標準とされる)。胡麻毛が多いが、赤胡麻や黒胡麻のほか、赤毛や黒毛も少数いる。また、日本犬の中で最も狼に似ていると言われる野性味のある顔と鋭い眼、細長く飛節の発達した肢が特徴だ。加えてそれなりにボリュームのある大きさでありながら俊敏で軽快な「素軽い」と評される動きは、もしも山中で出会ったらギョッとするのではないかと思う。

気性は、周囲に対して敏感でやや神経質。警戒心が強いが主人には忠実という日本犬らしさをしっかりと持っており、他者をたやすく寄せ付けない古武士のような雰囲気に魅了される人も多い。

高知県と愛媛県の間にそびえる石鎚山は、標高1982mで西日本最高峰。日本七霊山の一つにも数えられ、信仰の山として四国の人々に大切にされてきた。

本川系と幡多系。基礎となった2大主流

四国犬に関する書籍を当たってみる時、他の日本犬犬種よりも、時の名犬1頭1頭に対する詳しい記述や交配の情報がつまびらかなことを感じる。それは、日本犬保存会の展覧会第5回から8回まで、最高賞である文部大臣賞(現在は文部科学大臣賞)を四国犬が席捲したことにも関係するように思う。

日本犬保存会が定める「日本犬中型」にぴったりとはまる姿と気質を従来兼ね備えており、山出しの犬(猟師から譲られて世に出てきた犬)であっても完成度の高い犬が多かったようだ。

四国犬の保存に貢献した当時の人々は、地域によって安芸、本川、幡多と3系統に四国犬を分けた。ただし安芸系はだんだんと先細りし、雑交も進んでうまく保存ができなかったようだ。残る本川系、幡多系が今日まで続く四国犬の基礎となっており、特にそれぞれから輩出された「四国犬3名犬」の功績が大きい。戦前に一世を風靡したこの3頭について紹介しようと思う。

まず、なんといっても有名なのは「長春号」。本川系の代表と言える犬で、当時「土佐のチベット」と言われた石鎚山東南のエリアで、峻険な山を駆けまわっていた犬だ。猟師が山から売りに出てきたのをある医者が買ったものの、粗食に慣れていた犬に大量に美食を与えたためにひどい皮膚病になってしまい、日本犬保存会高知支部の役員でもあった岡崎氏に譲られた。岡崎氏のもとでみるみる完治した長春号は、日本犬保存会第7回本部展で文部大臣賞を受賞。締まった体、発達した飛節、鋭い眼光で多くの日本犬ファンを熱狂させ、今も語られるカリスマ的な犬となった。その後、岡崎氏から古城九州男氏に譲られ、古城氏が長春系を確立させた。

枯れたトモ(後肢)、均整の取れた体つきは山出しの犬と思えないほど完成されている。昭和初期から中期、ほとんどといっていいほど四国犬の名犬の系統図には長春の名前がある。右は晩年だろうか。正面の長春号の写真は貴重。本川系の特徴である四ツ目(眉が白い)が分かる。(写真提供/鈴木久男氏)

次に紹介するのは楠号。第五回の日本犬保存会展覧会で文部大臣賞に輝き、四国犬の名声を世に知らしめた犬と言える。楠号も長春号と同じ本川系だが、長春号よりもどっしりとした骨量豊かな体躯だ。「体高53㎝ほどで、毛質がよく、骨の堅い感じの犬だが、全体が非常に充実している」とは実際にこの犬を見た人の評。同人の「長春が颯爽と評するなら楠は粛然たり」という言葉が物語るように、静の中に動を秘めた犬だったようである。子出しもよく、次代に続く犬を輩出している。

長春号よりも少しずんぐりして見えるが、張りつめた筋肉を感じる均整の取れた構成の楠号。(写真提供/鈴木久男氏)

最後は、幡多系の代表、ゴマ号。幡多郡は高知県西部にあり、やはり交通不便な場所だった。海辺では漁業、山側では林業が主な生業で、山の方では植林地や希少な畑を荒らす猪との戦いに日本犬が不可欠だったようだ。

この地域で産出された幡多系の四国犬は、本川系に比べてややずんぐりしているものの、前半身がよく発達しており、頭蓋が太く、耳がやや小さく厚い。頸も短めで、柔道家のような逞しい雰囲気の犬が多かったようだ。ゴマ号も体高51㎝と、四国犬の牡としてはやや小さいサイズだが、骨量と被毛の良さで大変大きく見えたという。その堂々とした風格が高知の人々の嗜好にあったのか、高知県内では長春号よりもゴマ号の方が人気だったそうだ。ただ、ゴマ号は系統繁殖の計画的作出がされておらず、父方に長春号の血が入った「松風号」という犬が、戦後になって人気を博した。いわゆる「松風系」の基礎となった犬である。

幡多系を代表するゴマ号。本川系よりやや胴長でがっちりして見える。「土佐のいごっそう」という言葉が当てはまりそうな犬だ。(写真提供/鈴木久男氏)

以上、2系統・3名犬(これに本川系の熊号を加えた「4名犬」という説もある)が戦前の代表的な四国犬の名犬であり、2つの系統が互いに切磋琢磨して四国犬の基礎を固めていった。

現在ははっきりと「本川系」や「幡多系」とは別れておらず、各系統のいい所を取り入れながら作出されており、姿形、飼いやすさなどを向上させている。昔の犬に比べ、姿が美しく整ってきているのはすべての日本犬に言えることだが、四国犬は発見当時からかなり完成度の高い犬が多かったこと、戦争を挟んでもなおその犬の血を残してこられたことも大きな特徴と言えるかもしれない。

手はかかるが、飼い応えのある犬

千葉県鴨川の海を望む高台で8頭の四国犬を飼育する鈴木久男さんは、40年以上四国犬を飼っている大ベテラン。日本犬保存会の展覧会でも本部賞(壮犬・若犬など各クラスの中で上位に入った犬の中で、さらに上位の犬に与えられる)を何度も獲得している。四国犬を実際に飼ってみてのエピソードや、思い出の犬について伺ってみた。

のんびりとした空気が流れる鴨川の海沿いで管理されている鈴木さんの四国犬たち。左下の香寿は12歳だが、そうは思えないほど若々しい。右下は取材当時まだ7カ月の海輝。未成犬の牝でもこの眼光の鋭さ

鈴木さんが四国犬を知ったのは、昭和51年に奥さんの親類の家で飼っていたのを見たのがきっかけ。「こんな、狼みたいな犬がいたのか」と驚き、同時に野生味あふれる目に惹かれて、仔犬が生まれたら譲って欲しいと頼んだのが最初だったそう。

「四国犬は性格がきついから、最初は牝にした方がいいと言われ、迎えたのは牝でした。その後、すっかり魅了されて多くの四国犬を飼うようになったわけですが、確かに飼い主でも噛みついてくるような犬もいますからね。牡なんか、出そうとすると、毎回扉にバーンとぶつかって飛び出してこようとするのもいて……。その犬は噛みつくわけではなかったですが、頭もいいし力もあるしで、主人と認めさせるまでが大変でした。だけど、柴犬じゃちょっと小さくて私にとっては物足りないし、なんといってもこの目つきと風貌は他にはないしで……。もともと、柴犬や紀州犬も飼っていたのですが、すっかり四国犬一本になってしまいました」

主と通じ合うような仕草や成長をすることも

「手をかけて、応えてくれる犬も多かったです。例えば、栃和姫(とちかずひめ)という犬がいたんですが……」

そう言って話してくれたのは、昭和62年によその犬舎で生まれて、生後4カ月の時に”発育不足だから台牝(出産に使う牝)にでもしてよ“と譲られた牝の話。展覧会は望めないサイズだと思っていたが、譲り受けてみると、どうやらお腹に虫がいるようだった。管理不足による発育不良だと思い、虫下しを与えて手を尽くしたところ、小さかった仔犬が標準のサイズまでしっかり育ったという。

「その犬が、展覧会で本部賞を6本も取ったんです。当時は、日本犬保存会本部展で本部賞を取るとその犬自体が県指定の天然記念物になりまして、栃和姫も千葉県指定の天然記念物になったんですよ。飼いやすくて眼が魅力的な、いい犬でした」

また、鈴木さんの知人の猟師で紀州犬と四国犬を使っている人は、「四国犬は主人とよく連絡を取る」と言うそうだ。通常、犬が獲物を見つけたり留めたりした時は鳴いて知らせ、主人がそこへ駆けつける。だが、四国犬は日本犬の中でも1、2を競うと言われる俊足を活かして山中を駆けまわり、主人の所へ逐一走ってきては獲物の方向を教えてくれるという。

取材に伺った時は仔犬の海輝以外さわらせてくれず、余所者にはとことんつれない犬達だったが、たった一人の主人には恩に報いるように育ってみたり、主人を走らせるなどとんでもないと言わんばかりに走り回って方向を示したり、なんともいじらしい。そんなところも昔の愛犬家たちに、「武士のようだ」といわしめる所以かもしれない。

「でも、現在、四国犬の飼育頭数は減少の一途を辿っています。この8年間での登録数はたった2400頭。絶滅危惧種と言えるような状況が続いているんですよ。少しでも四国犬を飼う人が増えてくれるといいのですが」

北海道犬、紀州犬でもこの悩みは聞いてきたが、実際の所、日本犬は柴犬以外の飼育頭数はとても少ないのだ。天然記念物に指定されても、犬は人が飼わなければ残っていけない。人同士の触れ合いが減っている今の時代、太古からの人間の友と向き合ってみてはどうだろう。日本犬ならではの潔さ、忠誠心、愛情深さに多くの気付きや感動をもらえると思う。

本部賞を2本獲ったという鈴木久男さんの愛犬、天将号(当時2歳・牡)。主人の期待に応えて、受賞直後の顔が誇らしげだ。

取材協力:鈴木久男氏

1978年より四国犬を飼い始め、日本犬保存会の展覧会でも多くの入賞犬を出している。

現在は8頭の四国犬を擁する、四国犬犬舎「太海荘」の主人。

文・写真: 舟橋 愛 Ai Funahashi

編集ライター。 旅と動物と料理が好きで、特にカジノのある国と甲斐犬に夢中。
2005年より北米・アジアを中心にカジノ旅行を繰り返し、訪れたカジノは10都市・70回以上。著書に「女子のカジノ旅行記」(メディア・パル)など。