今から1500年近く前に始まった越前の和紙作りは、長い歴史の中でさまざまな技を生み出し、それを世代を超えて受け継いできた。無地の紙に美しい模様を染め上げる墨流しもそのひとつである。平安時代に生まれたとされる伝統の技を見せていただくため、越前市の五箇地区にある紙漉き場、株式会社五十嵐製紙を訪ねた。
文 : 佐々木 節 Takashi Sasaki / 写真 : 谷口哲 Akira Taniguchi
墨流しの起源は平安時代の貴族たちの遊び。
福井県和紙工業協同組合の理事長、五十嵐康三さんが営む紙漉き場は、紙の神様『川上御前』を祀る紙祖神岡太神社・大瀧神社の大鳥居が立つ参道のすぐ間近にある。大正8年(1919年)創業の五十嵐製紙は100年を超える歴史を持ち、五十嵐さんの家族をはじめとする十数名の和紙職人たちが働いている。
墨染めというのは、和紙作りの盛んなこの地方に800年以上前から伝わる技法で、水面に浮かべた墨や染料を和紙に写し取ることで美しい模様を描き出していく。そもそもは墨を水面に垂らしてその模様を楽しむ平安貴族の遊びが起源と言われ、地域によっては着物の生地の染めにも用いられてきた。また、墨流しの模様は「墨(黒=苦労)を水に流す」という意味から縁起の良いものとも考えられている。
今回、この伝統的な匠の技を披露してくれたは五十嵐理事長の奥様で、およそ50年にわたり紙漉きの仕事に携わってきた伝統工芸士の五十嵐美佐子さんである。
世界にひとつしかない模様を和紙に写し取る。
墨流しに用いるのは、深さ5センチほどの浅い水槽と数本の筆、そして、溶剤で溶いた染料である。まるで水槽をのぞき込むように身をかがめた五十嵐美佐子さんが、染料を含ませた筆を水に浸けると、まずひとつの丸い形ができる。次にその中心に溶剤だけを含ませた筆で触れると、不思議なことにその色が輪になってスーッと広がっていくのだ。これを素早く、何度も繰り返していくと、太さもさまざま、間隔もさまざま、色もさまざまな同心円が幾重にも水面にできあがる。
こうしてまるで木の年輪のような模様ができると、今度はそれをうちわでそっと扇いでいく。すると規則正しい同心円は崩れ、美しい模様が水槽いっぱいに広がっていくのだ。最後に美佐子さんはその上に和紙をそっと置き、四隅まで密着させると、手早く引き上げる。すると水の上に淡く浮いていた染料が和紙に定着し、美しい模様が描き出される。
「墨流しの模様は水が自然に作り出すもので、極端に言うと、世界にひとつしかありません。印刷や手描きのように思い通りにはいきませんが、それだけに思いもよらない美しさが生まれることもあるんですよ」と美佐子さんは言う。
次々と墨流しを仕上げていく彼女の作業を見ていると、一見簡単そうにも見えるのだが、しかし、ここまでできるようになるには相当な時間と数え切れないほどの失敗を重ねてきたらしい。和紙は水面に触れた瞬間に墨や染料を吸い取ってしまうため、手元が少しでもぶれたり、紙の下にわずかでも空気が入ってしまえば、水面の染料をきれいに写し取ることはできないからだ。そんな意味でも、まさに一期一会の技なのである。
ときにはタペストリーのような特大の墨流しも手がける。
これまで五十嵐製紙では主力のふすま紙などを中心に、さまざまな墨流しの製品を世に送り出してきた。ときにはホテルのロビーの壁掛けやイベント会場のパーテーションのオーダーが入ることもあり、大きなものはそのサイズが2.4m×6.4mにもなるという。
一方、一般向けのアイテムでは、五十嵐さんの長女で伝統工芸士の五十嵐匡美さんが作る御朱印帳が人気を集めている。その表紙の模様は世界にたったひとつしかない正真正銘のオリジナルだけに、越前和紙の里などで開催される制作体験にも女性を中心に多くの参加者が集まるらしい。
このほか、匡美さんはFood Paperという新たな紙作りにも力を入れている。それは息子さんの小学生時代の自由研究をヒントに、本来なら廃棄されてしまう野菜や果物の皮などから作ったSDGsを意識した紙で、『野菜と果物からできた』と名付けたシリーズのノートやメッセージカードは、環境にやさしい文具として多方面から注目を集めている。
伝統と新たな発想が切り開く越前和紙の世界。
最後に越前和紙の魅力について五十嵐理事長に尋ねるとこんな答えが返ってきた。
「和紙は常に息をしているんですよ。私の専門のふすま紙や壁紙の話をするなら、ジメジメした季節には湿気を吸収し、カラカラに乾いた季節には水分を放出してくれます。これは大量生産のビニールクロスなどには真似できない機能で、そのおかげで人は快適に暮らすことができます。また、手漉きの和紙には独特のふんわりとした風合いや柔らかな肌触りがあり、手にすれば何とも言えない優しさを感じます。こうした和紙ならではの特徴は、これからの時代、もっと大切になっていくのではないでしょうか」
現在、多くの伝統産業では後継者不足が深刻だが、五十嵐製紙ではそんな心配はまったくないようだった。ここ数年、この会社には美術系の学校を出た新卒者が次々と就職しているし、創業者から数えて五代目となる五十嵐理事長のお孫さんも、すでに紙漉きの仕事を継ごうと決意し、よその会社で修行を始めている。こうした若い世代が伝統の技を身に付けながら、新たな発想でモノ作りに取り組んでいけば、今後、越前和紙の魅力はさらに広がっていくことだろう。
INFORMATION
越前和紙の里
(えちぜんわしのさと)越前和紙にちなんだ3つの施設、『紙の文化博物館』『卯立の工芸館』『パピルス館』のあるエリアは『越前和紙の里』と呼ばれている。日本で初めて紙が漉かれたと伝わる五箇地区の中心部にあり、北陸自動車・武生ICからは車で10分ほど。
■紙の文化博物館(かみのぶんかはくぶつかん)
越前和紙の長い歴史やその技術の素晴らしさを映像や展示でわかりやすく紹介。年に数回、さまざまなテーマで特別展を開催しているほか、別館の『和紙の交流・情報ゾーン』では越前和紙の主力商品であるふすま紙や壁紙などの室内装飾品を数多く展示している。
*入館料200円(常設展/特別展開催時は300円/高校生以下無料/入館料は卯立の工芸館と共通)/9:30~17:00(入館は16:30まで)/火曜・年末年始休館/越前市新在家町11-12/℡0778-42-0016
*Map ⇒ https://goo.gl/maps/ZSXoBmovgH6peXgM9
■卯立の工芸館(うだつのこうげいかん)
地元の職人さんたちが昔ながらの道具を使って越前和紙を漉いたり、乾燥室で干したりする一連の作業を間近で見学できる施設。建物は江戸時代中期の紙漉き家屋を移築・復元したもので、当時の人々の暮らしぶりも偲ぶことができる。
*入館料200円(常設展/特別展開催時は300円/高校生以下無料/入館料は紙の文化博物館と共通)/9:30~17:00(入館は16:30まで)/火曜・年末年始休館/越前市新在家町9-21-2/℡0778-43-7800
*Map ⇒ https://goo.gl/maps/np8BJJQ1CGBDAA2F9
■パピルス館(ぱぴるすかん)
大人から子どもまで、誰もが気軽に和紙作りを楽しめる施設。体験料は色紙サイズ500円からで、押し花や染料も用意しているので、自分だけのオリジナル和紙を作ることができる(15名以上は要予約)。併設の『和紙処えちぜん』ではさまざまな和紙商品を販売中。
*入場無料/9:00~16:00/火曜・年末年始休館/福井県越前市新在家町8-44/℡0778-42-1363
*Map ⇒ https://goo.gl/maps/oXCRp79HckFtLNLv8
紙祖 神岡太神社・大瀧神社
(しそしんおかもとじんじゃ・おおたきじんじゃ)日本で唯一の紙の神様(川上御前)を祀る神社で、越前和紙の里から岡太川を1㎞ほど遡ったところにある。岡太神社の創建は雄略天皇の御代(4世紀)、大瀧神社の創建は推古天皇の御代(6世紀末~7世紀)と伝えられ、ふたつの神社の里宮として江戸時代後期に社殿建築の粋を集めて建てられた本・拝殿は国の重要文化財に指定されている。
*参拝自由/越前市大滝町13-1/℡0778-23-8900(越前市観光協会)
*Map ⇒ https://goo.gl/maps/fdSdA7XpW5DJxq699
越前そばの里
(えちぜんそばのさと)地元の製麺会社が運営する施設で、物販コーナーにはそばを始めとする福井の特産品がずらりと揃うほか、そば打ち体験や工場見学もできるようになっている。そば処『越前屋(10:30~15:00)』では名物のおろしそばやソースカツ丼など地元の味が楽しめる。
*入場無料/9:30~16:00/定休なし/越前市真柄町7-37/℡0778-21-0272
*Map ⇒ https://g.page/echizensobanosato?share
北陸新幹線が福井・敦賀まで延伸
2015年3月に金沢まで延伸した北陸新幹線は、現在、金沢~敦賀間の約125㎞の区間が延伸された。石川県内には小松と加賀温泉の2駅、福井県内は「芦原温泉」「福井」「越前たけふ」「敦賀」の4駅に新幹線が停車する。これまで東京から鉄道で県庁所在地の福井をめざす時には、東海道新幹線(米原経由)でも、北陸新幹線(金沢経由)でも3時間半ほどかかっていた所要時間が、乗り換え無しの2時間台になり、観光でもビジネスでも利便性が大きく向上した。
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