狼信仰は、形を変えた自然崇拝とも言える。せっかく狼信仰・狼像という民俗的遺産を先人が残してくれているのだから、それを捨ててしまうのはもったいない、それを利用することで、人と自然との関係をもう一度立ち止まって考えるきっかけにすることはできないだろうか?という思いで撮影を続けている。大げさに言わせてもらえば、狼像に新しい命を吹き込みたいのだ。
文・写真 : 青柳健二 Kenji Aoyagi
写真家・青柳 健二
写真家。日本やアジアの風景を撮り続ける。特に現在は人間と自然がいっしょになって作り上げた田園風景を求めて全国各地を旅している。まなびジャパンで連載の「狼信仰」が大人気。主な著書に「メコン川」(NTT出版)、「棚田を歩けば」(福音館書店)など多数。
取材は10年前から。
狼信仰と狼像の取材をするようになったきっかけは、いまからさかのぼること10年以上前になる。
ある雑誌の連載で埼玉県秩父へよく行くようになった。そこで祭りや風景の写真を撮ったのだが、当時は狼信仰そのものを知らなかったし、狛犬と狼像の違いなど、気が付かなかった。
連載『狼信仰』の第1回「オイヌゲエ祭」にも書いているが、秩父市の吉田椋神社を初めて訪ねたのは竹製ロケット飛ばし「龍勢祭り」を見るためだった。その後この神社で「オイヌゲエ(お犬替え)」という祭りが行われていることを知り、犬の祭りだと思って再び訪ねた。その時、この「お犬」が「ニホンオオカミ」であることを初めて知ったのだ。
かと言って、ここからすぐに狼信仰の取材を始めたわけではない。
車をゲル・パオに見立てたきままな旅へ。
その後、妻と飼い犬といっしょに日本一周の車旅をしたが、結果的にこれが大きなきっかけになった。
仕事の都合で、一気に回ることはできなかったので、数回に分け、約1年間かけて、北は北海道から南は沖縄県まで、車中泊をしながら旅をした。当初、旅の目的は、若いころチベットやモンゴルで出会った遊牧民にあこがれて、車を「ゲル・パオ(移動式天幕住居)」に見立て、ただ気ままに旅をしたいというだけだった。(遊牧民も犬連れで旅をしている)
犬連れだったこともあり、各地に犬の像があることに気が付いた。北海道小樽市の「消防犬ぶん公」、新潟県の「忠犬たま公」、和歌山県の「高野山案内犬ゴン」、愛知・岐阜県の「前足を失ったサーブ」など、それまで「犬像」と聞けば、東京渋谷駅前の「忠犬ハチ公」くらいしか知らなかっただが、全国には、いろんな犬像があり、またそれぞれに物語があることを知ることになり、一気に犬像撮影に目覚めたのだった。
神社の狛犬や、伝説の犬は、「狼」であった場合も。
今度は、犬像を探しながら旅をしたのだが、時々、その「犬」が「狼」かもしれないという例が出てきた。とくに神社を守っている狛犬や、伝説の「犬」は、よくよく調べてみると「狼」であったりしたのだ。
例えば、静岡県磐田市の見付天神(矢奈比賣神社)には「しっぺい太郎伝説」というのがある。長野県駒ヶ根市光前寺に伝わるのは「霊犬早太郎の伝説」だ。これはもともと同じ伝説(犬の名前は違うが)だが、この伝説の「犬」が、ものによっては「山犬(=狼)」と表現されたり「狼犬」と表現されたりしています。
このように、「犬」なのか「狼」なのか、はっきりしないところがある。と、いうより、後で知ることになったのだが、西洋とは違い、日本では犬と狼の区別があまりできないこともわかったのだった。そのことについては、連載『狼信仰』の第6回「オオカミとお犬さま」あたりにも書いている通り。
全国の狼信仰・狼像を調べる。
そして、秩父の椋神社で出会った「お犬(狼)」について、もうすこしきちんと調べようと思っているうちに、全国に狼信仰・狼像が鎮座する神社が多数あることがわかってきた。
椋神社のオイヌゲエへ2度目に行ったときは、狼信仰の神社であることはもう意識していた。そして秩父各地でこのオイヌゲエと同じ行事が行われていることも調べていたので、猪狩神社、両神神社、若御子神社、城峰神社、釜山神社などを参拝し、「お犬さま(狼)」が刷られたお札をいただいた。このお札の中には手刷りしたものもあり、それぞれに味があり魅力的だった。
そしてこの行事には、20代、30代のときに通っていた中国雲南省の少数民族の祭りと同じ匂いを感じ取ったのだ。巡り巡って、また雲南省に舞い戻ったように感じた。たぶん、もともとこういった「土地の持っている独特の文化と物語」に対する関心が私の中にあったようだ。自分では意識していないが、結局は、同じことをいつも求めているのかもしれない。そういう意味では、「棚田」というテーマも同じだ。(まなびジャパン連載「棚田を歩く」)
狼信仰の総本山ともいえる、秩父市の三峯神社へ。
それから狼信仰の総本山ともいえる秩父市の三峯神社、青梅市の武蔵御嶽神社、北海道、東北地方、中部地方、近畿地方、中国地方の狼信仰の神社を参拝し、狼信仰と狼像の写真を撮影してきた。
全国の狼信仰を調べていくうちに、狼像が多く残っている地域のひとつは、意外にも関東地方であることがわかった。江戸時代から明治時代にかけて、関東地方を中心に、秩父市の三峯神社と、青梅市の武蔵御嶽神社を信仰する集団「三峯講」や「御嶽講」が組織され、多くの信者が参拝したが、それに伴って各地に三峯や御嶽の小社や祠が勧請されたのだ。このことについては、これからの「狼信仰」の連載でも紹介していくつもりである。
ちなみに、昭和15年の資料で三峰神社誌編纂室編「三峰山」によれば、三峯講は、長野県1410講、埼玉県914講、千葉県636講と続き、東京都は7番目で182講あった。
一方御嶽講は、明治期の「各県講社台帳」によると、埼玉県に1368講があり全体の39%に当たる。次に多かったのは909講があった東京。以下、769講の神奈川、159講の茨城県と続く。
このように、関東地方には、三峰講、御嶽講が多く、そしてその小社や祠に狼像が置かれたのが、多く狼像を見られる理由のひとつだ。
狼信仰を現代との関わりの中で考える。
私は、関東地方、特に都市部と狼という取り合わせに面白さを感じている。ただ、都会で狼信仰が流行したのは、狼が鹿や猪の害獣から農作物を護ってくれるということよりも、火災や盗難除けとしての御利益を期待してのことだった。また安政のときに流行ったコレラなど疫病除けだった。
関東地方の狼像を訪ね歩くうちに、私にはある思いが芽生えてきた。狼信仰は、過去の信仰・習俗なのだろうか?と。確かに、今も機能している講社の数は減ってきているし、仮に講がまだ残っていても、かつてのように信仰心からというよりは、行楽的要素が強くなっているのは確かだ。
しかし、狼信仰を過去の信仰・習俗としてとらえるのではなくて、むしろ、現代という時代との関わりでとらえてみたい、という思いは、私がこれまでジャーナリスティックな視点で写真を撮ってきたことと関係するのかもしれない。私の興味は、現代的な意味を持った生きている狼信仰なのだ。
山梨県丹波山村の七ツ石神社再建プロジェクト。
そこで興味を持ったのが、山梨県丹波山村の七ツ石神社再建プロジェクトの存在だった。どうしてこの平成という時代に、社殿も傾き朽ち果てようとしていた神社を再建するのか、また再建する意義があるのか、それを知りたいと思い、プロイジェクトの様子を1年にわたって見せていただいた。それが連載の第4回と、第5回の2回にわたって紹介した「七ツ石神社の再建プロジェクト」だ。
そこから見えてきたのは、狼信仰(それと七ツ石神社の場合は平将門伝承も)という民俗的文化遺産の再評価だ。地域の物語の掘り起こしは、土地の持っている価値の再発見である。それはまた先人の生き様を確認する作業であり、先人に対するリスペクトでもある。それを現代の問題である地域おこしと結び付けることで、狼信仰が新しい意味を持ってよみがえっているのだった。
前に書いたように、初めは害獣除けとしての信仰から始まった狼信仰も、火災除け、盗難除け、疫病除け、戦争中は武運長久の祈願など、時代が要請する人々の願いが狼信仰に現れているわけで、それなら現代でも、時代の要請としての新しいご神徳を見つけられるのではないかと思うのだ。七ツ石神社の場合も、ひとつのいい例だろう。
狼像が鎮守の杜を守っているように見える。
前述したように日本では「犬」と「狼」の区別があいまいだというのを逆手にとって(?)、今では家族同然として暮らすようになっている犬(ペット)の健康長寿の祈願として、狼信仰(お犬さま信仰)が新しい形として生まれてきている。実際、武蔵御嶽神社ではペット連れ参拝を認めている。(反対に、三峯神社では、ペット同伴参拝は禁止されてしまったが)。
もうひとつは、今、狼像がある都会の神社には、鎮守の杜が残っていて、私には、狼像がこの杜を守っているように見える。都会の喧騒の中にあって、そこだけが静かで神秘的な杜があって、その中にたたずむ狼像が頼もしく見える。そして何か、心の奥底を揺さぶられるような感覚を覚える。この感じは何なんだろう?と考えてきた。
これは個人的な感じ方になってしまうのだが、犬像と狼像を追っているうちに、私には、犬=陽・明・表であり、狼=陰・暗・裏であるというふうに感じるようになってきた。両方探し求めていたので、結果的に二者をこんなふうに対比するようになったのだと思う。言い換えるならば、犬は意識世界の物語で、狼は無意識世界の物語だ。犬は現実の動物として存在しているが、狼は絶滅しているということも背景にはあるだろう。いなくなってしまった狼は観念的な「お犬さま(狼)」になり、より「大神」に近づいたのだ。
狼像は畏怖と安らぎを感じさせる。
お犬さま(狼)像はカッコイイと思う。そして時には怖くも感じるし、反対に安らぎを感じたりもする。人々が無意識に抱いている「山」や「自然」に対する感謝=信仰心が、具体的な形として表現されたもの、それが、お犬さま(狼)像であるかもしれない。狼像の前に立つと、それは鏡のような作用をし、自分の内面に存在する自然を発見することができる気がする。
お犬さま(狼)像には、狼信仰という物語があるからこそ、ないがしろにできないと思うのです。物語を失ったら(狼信仰というものを忘れてしまったら)、単なる石の塊だ。石の塊ならば、躊躇なく壊されてしまったり、撤去されたりしてしまうのではないだろうか。
残念ながら、東京都内のある御嶽神社に鎮座していたお犬さま像は、2年ほど前、道路拡張のために撤去されてしまった例もある。(ただ像はあるお宅で保管はされている) 杜を失う開発がすべて悪いわけではないが、狼像が存在することで、杜を失うことを遅らせているのかもしれない。
先日、千駄ヶ谷で都会のビル群の中に、祠だけ残されている小さな三峯神社を見つけました。これを見ると、かろうじて聖域を守っている戦士にさえ思える。