日本の森は厳しい「山」そのものだった。
山は常に人の存在が試される試練の場所であった。
今、山は私たちに改めて自然観と民族の心を問うているではないだろうか。
(塩野米松)

斧を立てて祈りを捧ぐ

たくさんの山( ≒森)仕事の人に会ってきた。風倒木の運び出しのために、一緒に山に入り、作業を見せてもらい、昼食をごちそうになり、夕方にトロッコに乗って帰ってきた。木を切り倒すのを見、張り巡らされた策動で頭の上を木が運ばれていくのを見てきた。炭焼きの小屋に泊めてもらい、輝くような炎を見ながら、三代にわたる山暮らしの話を聞いた。マタギのクマ狩りに同行し、ブッパ(射手)の脇で凍えながら、勢子に追い上げられるクマを待ったこともある。プロの山菜採りやキノコ採りの仕事も見た。藪の中をはい回り、蔓を採集するアケビの細工師に必死の思いでついて行ったこともあった。耳かきいっぱいずつの樹液を集める漆掻きの駆け足のような移動に唖然とした。

山仕事をする多くの人は、山入りの際に山の神に、挨拶をし、恵みを分けていただく許可を願い、無事で帰れるように祈る。一人で行くときも仲間と入るときも、みな被りものをとり、頭を垂れ、胸の内で祈りを捧げる。その場所は山ごとに決まっている。多くは老いた木の前である。注連縄を渡した木もあれば、幣束(神への捧物)が捧げられていることもある。小さな祠がまつられている場所もある。

伐採に来た杣師(山の木を切るきこりさんや運び出す人)の場合は、神の依代である老木に、斧を立てかけて、祈りを捧げていた。斧には裏と表に筋が彫り込まれている。3本と4本が多い。杣師たちは、この筋は「身(3)をよ(4)ける」呪(まじな)いだという。危険の多い山仕事で、危険から身を守ってもらうことを願って彫り込んだものだと。斧は神聖な道具で、そうした力が秘められているのだと信じられてきた。ほ

かにも3の筋は「神酒」を4の筋は「風水火土」、もしくは3 の筋が「山海の珍味」を意味し4の筋に1本交差する5筋もあり、それは「五穀」を表しているともいう。みな神に捧げるものとして自分の道具に彫ってもらったのである。

それというのも、山というのは人間の努力や知恵ではとても及ばぬ畏怖すべきものであり、神聖な神の領域だという意識が強かったからだ。このことは、言葉ではわかるが、現代生活ではなかなか理解できないことだ。

山は神の領域。

私はイワナ釣りに行った渓谷で一夜を明かしたり、巨大なナラの木の根本で眠ったり、夜の山を歩くことがある。そのとき真の闇に怖れおののくときがある。キャンプ用のランタンや小さなたき火は、仲間がいれば心強いものだが、たった一人の時は恐怖を増す道具になるだけである。人工の明かりが照らす範囲はほんのわずか、逆に暗闇の広がりを知るはめになる。闇は怖い。手も足も出ぬ。浅薄な知恵などなんの役にも立たない。怖さを増大させ、妄想を際限なく膨張させるだけだ。その怖さはどこから来るのか。人類発生の時から受け継がれてきた闇に対する本能的な恐怖なのではないだろうかさえ思う。

怖さは人を謙虚にする。山は神の領域だと思う。

自分の小ささを知る。

現にマタギたちは山の神の領域に入れば、たくさんの禁忌で山の暮らしを制約した。俗を持ち込むな。穢れで神を怒らせるな。山を起こすな。それらを破れば、雪崩が起こり、木が倒れ、落石が襲い、道を失う。

父や夫を山に送り出した家族たちも、山入りの期間は静かな生活を送った。豆を煎るな、大きな声を出すな、派手を控えろ。それらは雪崩を呼び、嫉妬深い醜女の山の神の怒気にふれるからと。

今はほとんどいなくなってしまったが、私が会いに行った頃は、まだ山言葉を使うマタギたちが残っていた。彼らは山の神の結界に入れば、娑婆での言葉を一切使わなかった。山言葉と言われる、山でだけ使う言葉だけで話し、指示し、作業をこなした。里言葉を話した者は、神域を穢したとして水垢離や雪垢離をとって浄めなければならなかった。クマ撃ちは雪解け前の厳寒の季節である。裸で水を浴び雪で垢離をとるのはそこが神の聖域であることを身をもって示すことと、一つ間違えば全員の命に関わる災難が襲ってくることへ隙のない心を作るためであった。

宿泊のために背負っていった米さえも、「クサノミ」と呼び、切り火で穢れを払ってから小屋に運び込まれた。穢れの多い里で作られたものだったからだ。山は神の住むところ、神の管轄するところなのだ。人間たちはそこに入れていただき、獲物を恵んでもらう存在だった。故に山人たちは神に挨拶をし許可を得て山に入ったのである。山とはそういう場所だったのである。

掟を守り絶やさぬように。

自然の恵みを受ける者たちには暗黙の了解があった。賜るものを独り占めにしない。使い続けられるよう、絶やさぬようにすること。これは恵んでくれるものへの敬意であり、そこに住み、生き続けることを前提にした知恵でもあった。敬い続けることを誓い、分けていただくことで、家族を養い、子孫を繁栄させてもらうためであった。

一時の欲のために掟を破った者は、追い出された。

炭焼きたちは20年たてば、伐った木が育ち、再びその山で炭が焼けることを知っていた。だから根こそぎに切ることはなく、適時の材だけを伐って炭に焼いた。イタヤ細工(イタヤカエデの木を裂いてかごや箕を編むこと)の職人は15年ほどで自分たちが使う木を再び得られることを息子に教えた。アケビ蔓を取ってカゴを編む職人たちは、仲間で土用明けまで採集を禁じ、それを守った。クロモジの採集者も蔓職人も親木を伐る馬鹿なことはしなかった。

残しておけば、翌年もその翌年も、山は素材を供給し続けてくれたからだ。親木を殺したら自分たちは飯が食えなくなるのだ。

漆掻きやシナフ織り(シナノキの樹皮から繊維をとって織り上げた布)は、自分が使うために木を伐れば、後に生えてきたひこばえ(若芽)を育て、恩を返すのが務めであった。

宮大工は口伝で「千年の寿命の木を使ったら、千年持つ建物を造らねばならない」と伝えてきた。山の恵みをいただくからには、感謝し、絶やさぬように誓って仕事を継いできたのだ。

そこに自制が働き、知恵が生まれ、人が人らしく生きる道を模索する思想が育まれたのだ。これは山人だけではなかった。里に住み田畑を耕す者たちも同じであった。田の神は山の雪が駒型(雪の溶けていく形が駒(馬)の形になるこ)になり、辛夷の花が咲く頃になれば山から下りてきてくださった。田の神をまつり、田植えをし、収穫が住めば、山へお送りした。

その山は亡くなった家族や祖父母が冥土の行く前に一休みし、来し方を思い、みなの生活を見守ってくれる座でもあった。

長い長い輪廻のなかに。

山と里は常に行き来する循環のシステムであった。

里の田畑の土を肥やし、豊かな土壌にするためには、山で集めた枯れ葉や柴が必要だった。一番の肥料はナラやコナラなどのドングリの葉だった。それを秋にかき集め、鶏糞や牛馬の糞と混ぜ、上等の肥料を作って田畑にすき込んだのだ。そうしてこそいい野菜や米が出来たのだ。そのために、分家するときには田畑だけではなく、山が財産として添えられたのである。

その山も田畑とともに子孫に譲られた。長い長い輪廻のなかに人の人生は組み込まれていたのだ。こうして山や神への畏怖、恵みへの感謝。絶やさず、受け継ぐ思想は日本人の生き方そのものを作り上げてきた。

民族の根源であった「絶やさず継ぐ」という思想は、今失われようとしている。

恵みを資源と呼び、いかに効率よく利用するかと考え出した。人の短い人生の尺度で効率と効果を欲しがるようになったのだ。

結界の向こうの聖域は重機で踏み荒らされ始めた。まだ幣束が飾られ、山の神をまつる人たちはいるが、里や町の人々はそれを共有しようとはしなくなった。

「森」という言葉が多く使われるようになった。山の名前には「山」「森」「岳」がつくものが多いが、かつてはそこを森とは呼ばなかった。鎮守の杜はあったが、ヨーロッパのような森はなかった。日本の森は厳しい「山」そのものだった。森というメルヘンチックでポエムの香りを持つ言葉が山に取って変わった頃から、敬いの心が薄れ、恵みを感じなくなり、畏怖の心が消えてしまったのではないだろうか。

山は常に人の存在が試される試練の場所であった。

今、山は私たちに改めて自然観と民族の心を問うているのではないだろうか。

文: 塩野米松 Yonematsu Shiono

1947年生まれ。秋田県出身。東京理科大学理学部応用化学科卒業。作家。アウトドア、職人技のフィールドワークを行う。一方で文芸作家としても4度の芥川賞候補となる。絵本の創作も行い、『なつのいけ』で日本絵本大賞を受賞。2009年公開の映画『クヌート』の構成を担当。聞き書きの名手であり、失われ行く伝統文化・技術の記録に精力的に取り組んでいる。主な著書『木のいのち木のこころ』(新潮社)、『失われた手仕事の思想』(中央公論社)、『手業に学べ』(筑摩書房)、『大黒柱に刻まれた家族の百年』(草思社)、『最後の職人伝』(平凡社)、『木の教え』(草思社)など多数。