旧暦の月の名前といわれる和風月名は、身近な自然の変化や人間の営みを表した素朴な自然暦の月名として生まれたと考えられます。

和風月名とは

暦の月の名前は年の始めから一月、二月と順に名付けられていますが、こうした単純な名前の他にさまざまな異称があります。四月という月一つをとってもその呼び名は、卯月(うづき)、建巳月(けんしげつ)、孟夏(もうか)、卯花月(うのはなつき)、夏初月(なつはづき)、花残月(はなのこりづき)など書ききれないほどあります。そうしたさまざまな月の異称の中でも、旧暦時代の日本で長く親しまれてきた代表的な十二の月の呼び名、睦月(むつき)・如月(きさらぎ)・弥生(やよい)・卯月(うづき)・皐月(さつき)・水無月(みなづき)・文月(ふみづき)・葉月(はづき)・長月(ながつき)・神無月(かんなづき)・霜月(しもつき)・師走(しわす)を和風月名(わふうげつめい)といいます。

現在は新暦の月の異称として使われることもある和風月名の歴史は古く、日本にまだ文字などなかった昔にまで遡るものだろうと考えられます。

自然暦と和風月名

私たちが現在使っている暦は太陽や月の動きにもとづいて作られた精緻なものですが、人間が最初に作り出した暦は、身の回りの自然の変化や狩猟、農耕といった生活に密着した事柄を表す言葉を季節にあわせて配置しただけの素朴なものだったと考えられます。こうした暦のことを自然暦といいます。

和風月名には年の始めに新年を祝って家族親戚が睦みあうという睦月があり、草木が生い茂るという意味の弥生があり、水田に早苗を植える月という皐月があり、初冬の寒さを示す霜月がありと、素朴な自然暦の痕跡が見てとれます。どうやら和風月名は大陸から精緻な暦がもたらされる以前に日本に存在した素朴な自然暦がその元になっているようです。

和風月名と旧暦、新暦の関係

旧暦と呼ばれる暦は元は中国で生まれたもの、和風月名は日本に生まれた自然暦が元と考えられますから両者は別のものでした。しかし、日本において旧暦が使われ続けた千年以上もの間に、両者はうまく折り合いをつけて溶け合い、「和風月名は旧暦の月の名前」と考えられるまでになりました。

では新暦と和風月名の関係はどうでしょう。睦月や師走のように一年の始め、終わりという人間の社会生活のリズムと強く結びついた月名の場合は、新暦の月に用いても違和感がありません。しかしその他の和風月名を月の並び順に新暦の月に当てはめてしまうと、月名から想像する季節と実際の季節との間にずれを感じることになります。このように現時点ではしっくり行く部分あり、行かない部分ありという新暦と和風月名の関係ですが、十分な時がたてばいつかは折り合いがついて、「和風月名は新暦の月の名前」といわれる時代が来るかもしれません。

旧暦のある暮らし 【卯月と皐月】

【卯月・4月】

■花見(はなみ)

「彼岸桜(ひがんざくら) 立春より五十四五日目頃より。単弁桜(たんべんざくら) 立春より六十日目より」これは、江戸時代の書物に書かれた花見の名所、東叡山(とうえいざん)の桜の花の時期を紹介した文章です。江戸の人達が花の時期を気にしていたことがわかります。花見を楽しみにする気持ちは今も昔も同じ。異なるのは、私たちは暦の月日で桜の開花時期を考え、江戸の人たちは立春から数えた日数で考えることです。旧暦の月日では花の時期をうまく表せないからです。

■潮干狩(しおひがり)

2023年の4月22日は旧暦の日付では3月3日、雛祭りの日です。雛祭りの始まりは身についたけがれを祓う禊ぎの行事で川や海などの水辺で行われました。海が近い地方では雛祭りの日には磯遊びや潮干狩をして楽しむという風習があったそうですが、これも水辺で行われた禊ぎの名残だと考えられます。旧暦の3月3日頃は海の水も温み始め、磯遊びや潮干狩には良い時期です。雛祭りが禊ぎの行事だった昔に思いをはせ、春の一日、潮干狩をして楽しむというのはいかがでしょう。

■虹始て見る(にじはじめて あらわる)

春になり雨の回数が増えてくると虹を目にする機会も増えることからこうした言葉が生まれました。虹は古くは水を司る竜の一種で雌雄の別があると考えられていました。時折、空に二重の虹が架かることがありますが、その時、内側に見える虹が雄の「虹(こう)」、外側に見える淡い虹が雌の「霓(げい)」なのだそうです。

【皐月・5月】

■八十八夜(はちじゅうはちや)

夏も近づく八十八夜。立春から数えて88日目の日で、今年は5月2日がその日です。春から夏へと季節が変わっていく時期にあり、農作物の生育において重要な節目となる日だと考えられています。この日に摘まれた茶は味が良いとされ珍重されます。八十八夜は日付によって季節を正しく表すことができない旧暦の欠点を補うために暦に書き加えられるようになった雑節の一つです。

■端午の節供(たんごのせっく)

本来は5月の初めの「午(うま)」の日の節供であったことから、端午の節供と呼ばれました。現在のように5月5日という日付に固定されたのは三国志の時代の中国でのことです。端午の節供はまた菖蒲(しょうぶ)の節供とも呼ばれます。旧暦の5月は梅雨の最中で物の腐りやすい時期でしたから、そうした悪い気を祓うために芳香を放つ菖蒲の葉を家の屋根に刺したり、髪飾りとしたことがその名の由来です。やがて、この菖蒲が尚武(しょうぶ)に通じるとして、端午の節供は男児の節供となり、その立身出世を願って鯉のぼりや武者人形を飾って祝うようになりました。

■早苗饗(さなぶり)

田植えを終え、田の神を送るために行われた祭りが早苗饗です。転じて田植仕舞の祝宴をさす言葉にもなりました。和風月名の五番目の月、五月を表す皐月は早苗を植える月という意味だと考えられます。そうしてみると田植えの終わりを示す早苗饗は、五月の終わりを告げる祭りであり祝宴だともいえそうです。