長く複雑な海岸線から、内陸の山岳地帯まで、高低差も大きく変化に富んだ地形の島国・日本。それぞれの環境に合わせ、さまざまな樹木が組み合わさって、多種多様な森林を形成しています。ここでは植生の違いを中心に分類しつつ、ぜひ訪れていただきたい、魅力あふれる森をご紹介します。
今回は、倒木更新の針葉樹林、「阿寒」です。
写真・文 : 石橋睦美 Mutsumi Ishibashi
蝦夷地時代の原生林を思い起こさせる
国道241号線沿いにある双湖台に立つと、イベシベツ川源流域を成す森林帯が見渡せる。雄阿寒岳を頂点にした丘陵が遥か地平線にまで続き、深緑の森林が覆う谷間にペンケトーとパンケトーの青い湖水が輝いている。その風景は、まだ蝦夷地と呼ばれていた時代の原生林を思い起こさせてくれる雄大さだ。だが、この森林帯は、森林再生に勤しんだ前田家三代に渡る地道な作業によって蘇った森なのである。もうだいぶ以前になる。前田一歩園財団の森へ、許可を得て入ったことがある。その時の印象だが、イベシベツ川沿いに車を走らせている間中、北方針葉樹林が発する香りに満たされた思いがある。
倒木を土台に、また多くの幼樹が育つ
阿寒山域でもう一箇所、特徴的な森林景観を形成する森がある。雌阿寒岳山麓に広がるアカエゾマツが優占する森である。その森へは野中温泉からオンネトーへ続く遊歩道へ入る。小さな湿原を通り抜けると、もうアカエゾマツの森である。
踏み跡を辿り森の奥へ行ってみると、林床を蘚苔類が覆っていて、足裏からふかふかした感触が伝わってくる。このスポンジのような水分を含んだ土壌が、森を育んでいるのである。さらに凄いのは、林間に太い倒木がいく本も横たわっていることだ。古い倒木は朽ち始めているのだが、苔が付着してかろうじて形をとどめている。その倒木を土台に多くの幼樹が生え出している。
倒木更新の森。
樹冠に枝を広げ葉が密集するアカエゾマツの林内は常に薄暗い闇が包んでいるのだが、その明るさの乏しい環境がアカエゾマツの実生にとっては快適なのである。日差しが少ないところで育つことができる陰樹だからだ。さらにアカエゾマツの巨樹は油脂分を多く含んでいる。ために倒れても長くその形をとどめることが可能だから、倒木に生え出た実生にとって生長する上で安定した場所となる。
このような森の姿を倒木更新といいマツ科やヒノキ科などの常緑針葉樹で見られるのだが、倒木を褥(しとね)にすることで雑菌に侵されることが減少すると考えられている。
巨樹が倒れると非情な生存競争が始まる。
雌阿寒岳山麓に茂るアカエゾマツ林の倒木更新は、幼樹の数の多さが生半可ではない。びっしりと倒木に芽生えている様子が観察できる。ただ、これらの幼樹が全て育つことはない。いつの日か近くの巨樹が倒れて空間ができると、非情な生存競争が始まるのだ。そして最後に残るのは、一本の樹が占めていた空間を埋める一本だけが生き残れるという。その空間が生じるまで、幼樹のまま数十年も待つというから驚きだ。この森の倒木に生え出た無数の幼樹を見つめていると、温和とも見える光景だが、いつの日か鮮烈な闘争が繰り広げられるのをジーっと待ち続けている。それが自然の摂理であって、輪廻を象徴する姿なのである。
アカエゾマツは、樹木が嫌う土地に自分たちの生育地を見出した。
それにしても、なぜ雌阿寒岳山麓にアカエゾマツの純林が存在するのだろう、と疑問がわく。要因は火山性酸性土壌に起因している。強酸性の土壌は、植物の生長によい環境とは言い難い。それなのにアカエゾマツは純林に近い状態を維持している。じつは他の樹との競争力に弱いアカエゾマツは、樹木が嫌う土地に自分たちの生育地を見出したのだ。その結果、雌阿寒岳山麓の競争力が少ない強酸性土壌の土地に、アカエゾマツは優占樹林を形成できたのである。
森林を映す湖面が神秘的な光景を描き出す。
近くに美しい湖水がある。周囲はアカエゾマツの森に囲まれていて、澄んだ湖水を湛えている。オンネトーと呼び、風の凪いだ早朝には、森林を映す湖面が神秘的な光景を描き出す。そのオンネトーの湖水も強酸性で魚は生息していない。湖岸から湖底を覗き込むと、倒れたアカエゾマツの巨木が腐らずに長年形を止めている。これも微生物がいない強酸性の湖水によるところが大きい。そんな湖をアイヌは年老いた湖、オンネトーと呼んだ。