山辺町の中心部から県道18号線を車で15分ほど走ると、山間部の小盆地に大蕨棚田と集落が見えてくる。「日本の棚田百選」の看板が立っているが、冬にはこの看板が隠れてしまうほどの豪雪地帯でもある。
「大蕨棚田」は1999年に「日本の棚田百選」に認定されたが、2008年7月、周辺の田んぼと併せて16haが「山形の棚田20選」としても認定された。

棚田のオーナー制度

初めて大蕨の棚田を訪ねたのは、ここが「日本の棚田百選」に選ばれた翌年の2000年だが、当時、「棚田」に注目が集まり始めたころであり、棚田のガイドブックを作るにあたり、私は、大蕨の棚田を推選して取材をしたことがあった。

大蕨支所で、ここに7年間住み続け、みずからも田んぼを作っているという当時の支所長から話を伺った。

棚田で使う水は、上流部にある雑木林から浸み出る湧水を利用しているが、昔は用水利用の時間と順番を決めた「番水」制度を導入して水争いが発生するのを防いでいた。今は暗黙の了解があるので、争いは起こらない。

当時、全国的にみれば棚田のオーナー制度はまだめずらしかった。だから大蕨を取材地に選んだということもある。

支所長は、大蕨にはある程度のノーハウはあったという。ソバのオーナー制度を7年前からやっていたからだ。オーナー制度の目的を三つあげた。ひとつは景観の保全、ふたつには棚田米を広めること、三つには楽しみながらの農業を目指すこと。

東京都町田市で、1999年年12月4日に「第一回 山形うまいもの祭り」が開かれたが、その会場でおにぎりや米を販売したそうだ。自然乾燥の棚田米が評判になって、あとで、個人的に、米の申し込みがあった。直接注文すれば、生産者の顔も見え、信用度が大きく、同一品種の米を購入できるなど消費者にもメリットがあった。

棚田で杭掛けして乾燥して米を作ることは、非効率ではある。しかし、米は「物」ではなく「食べ物」であるという意識を持ち続けたい。遺伝子組み替え作物などが入ってきていて、食の安全を考える機会は多い。食べ物を自分で作るのは、今の時代、大変な贅沢でもある。

一方、都会の人にとって、田舎の風景は時間に追われた生活から解放され非日常の体験ができるところ、癒しの空間である。観光地じゃない、何もないところが、逆にリフレッシュする空間になる。オーナー制度も、自分たちが楽しいうちは続く。「誰かのために」やるのは難しい。活動の目的は、自分たちが楽しめること。それが地元の見直しにもつながる。そして都会の人にも喜んでもらえればいい。

物があって賑やかなことが、本当に豊かと言えるのか? 何もない田舎と、どっちが豊かなのか? そういう問いかけをやっていて、このオーナー制度も、その延長線にあると、支所長は言った。

これは約20年前のインタビューだが、棚田を作り続けることや、オーナー制度についての思いは、今の時代と変わってはいないようだ。

米を自然乾燥する稲杭の風景

ところで、大蕨の棚田が百選に選ばれた理由のひとつは、なんといっても、米を自然乾燥する稲杭(杭掛け)の風景が残っているからだ。稲杭は、9月末の稲刈りが終わってから、10月中旬まで見られる。稲を架けた杭が、何十本と並んだところは、まるで整列した人間たちのようにも見え、どこかユーモラスで、オッと驚かされる。

東北地方の一部の田んぼで行われているもので、稲杭と呼ばれる棒を垂直に立て、収穫で刈り取った稲束を円形に掛けて団子状にする。こうして稲を自然乾燥させるとおいしい米ができるという。

棚田の連載第2回目に紹介した山形県朝日町の椹平の棚田の特徴として、杭掛けの風景が残っていることを挙げた。

しかし、杭掛けに関して椹平とは決定的に違う部分がある。それは大蕨ではひな壇状になった棚田に並んでいる光景が見られることだ。これが大蕨独特なのだ。

稲杭は秋の風物詩だが、だんだん少なくなっているのが現状だ。大蕨の人口は300名たらずで、60歳以上が4割と高齢化が進んでいる。実際農業を行っている人の平均年齢は70歳代の前半となっている。高齢化や担い手不足から年々耕作放棄地や転作田が拡大していった。

しかし棚田再生協議会を立ち上げて、中地区有志の会、グループ農夫の会と共に、大蕨棚田と大蕨地区の活性化を図っている。少しずつではあるが棚田が再生されている。

2011年に、「Jリーグ・モンテディオ山形」、「山辺町」、「地域住民」の三者が一体となり棚田再生と地域の活性化を目指して大蕨地域活性化棚田再生事業協議会が設立された。

モンテディオ山形の選手たちに田植えや稲刈りなどに協力してもらい、獲れた米を「モンテ棚田米」と名付けて販売し、使用したロゴのロイヤリティをモンテディオの支援資金として提供するシステムである。

耕作する田んぼも増え、モンテディオのサポートにもなり、お互いがウィン・ウィンの関係になっている。