東北の狼信仰を概観すると、太平洋側に痕跡が多く残り、日本海側に少ないという傾向がある。これは「再び、オオカミ現る!」展を開催した宮城県村田町歴史みらい館の石黒伸一朗氏もいっていたことだ。
私は山形県で生まれ育った。大学を出てから関東地方に来て、今さら「山形県民」とはいえないが、やはり出身地ということもあり、山形の狼信仰については特別関心が沸いた。それで調べてみたが、いくつか狼信仰の痕跡があった。
尾花沢市の三峯山神社、最上町のおいの祭りや「三峯山」の石碑、鮭川村の狼の穴、
上山市の狼石、高畠町の山津見神社、などである。
文・写真 : 青柳健二 Kenji Aoyagi
尾花沢市の三峯山神社
山形県尾花沢市の細野地区には三峯神社があった。「再び、オオカミ現る!」でも、山形県で唯一の「三峯神社」として紹介されていた。
三峯信仰の情報を聞くために尾花沢市役所を訪ねた。
地元の詳しい人に電話をしてくれた。その人によると、たしかに「三峯山神社」の碑が立っていることがわかった。ただ、この碑の由来はわからないという。
細野地区は、市役所から南の方角で、こんなところがあったのかと思うほどの、紅葉が美しい谷沿いの道を進んでいく。
30分ほどで細野に着いたが、もらった地図の場所に神社が見当たらない。山を回り込むと小川が流れ、橋が架かっていて民家が1軒あった。近づくと民家の脇の細い道から上っていくらしいことがわかった。道標と階段が見えたのだ。
階段を上ると集落や田んぼを見渡す高台にお堂があった。右側に続く山道をたどると、別なお堂の前にポツンと碑が1基立っていた。近づいて見ると、これが「三峯山神社」の碑だった。
建立されたのは昭和17年。今まで見てきた碑は、江戸末期とか明治時代のものが多かったので、逆に、どうしてこんなに新しいのだろう?と不思議に思った。
石黒氏によると、郡山市富久山町の三峯神社にある狼像は、日支事変の記念で建てられたため、出征兵の安全とも関係していたという事例がある通り、この昭和17年の碑も、戦争がらみではないかというのだ。
昭和17年というのは、1月には日本軍がマニラを占領、2月にはシンガポールを陥落させ、5月にはビルマのマンダレーを占領するなどした年だ。戦争に突き進んでいた時期と重なっている。
だから、「三峯山神社」の碑には、出征兵の安全祈願もあったのではないかという説にはうなずける。今さら狼の被害はないし、猪鹿除けでもないだろう。
安政5年に大流行したコレラに効くといって、三峯神社のお犬さま信仰が流行したことはすでに書いた。コレラは、「コロリ」と呼ばれ、この世のものではない異界の魔物の仕業だと考えられた。
魔物は、根源にいる悪狐・アメリカ狐で、それを退治してくれるのは狐の天敵の狼しかいないということになった。そして狼を眷属として祀る秩父の三峯神社に着目したのは自然の成り行きだったろうというのだ。(高橋敏著『幕末狂乱 コレラがやって来た!』参照)
このようにコレラが発生した時、アメリカ狐除けとして信仰されたことから推測すると、狼が持っている「強い」「勇敢」などのイメージともあいまって、戦争での敵除けや弾除け、出征兵の安全祈願で碑が建てられた可能性はあるのかもしれない。
ただ今のところ、資料もないので、本当のところはわからないというのが実情だ。これからの研究で明らかにされるかもしれない。
最上町のおいの祭り
『最上町文化財資料第十一集 小国(最上町)の年中行事と祭事』(最上町教育委員会)や、『最上町史 下巻』には、笹森の自然石の「おいのさま」の写真や、「おいの祭り」の記述がある。
「この祭りは馬産にまつわる習俗の一つで、「おいの」とは「おいぬ」のことつまり狼のことである。その昔「庄屋の馬が狼に食い殺された」とか「馬捨馬(死馬を埋める場所)の馬が食い荒らされた」というそんな伝えが残っているのを見ると、狼はたいへん恐ろしいものと受けとめていたにちがいない。ともあれ村人はその難を逃れようと、荒れる霊を祭り鎮魂したのである。その行事が習俗となって、長く伝承されてきた。」(『小国(最上町)の年中行事と祭事』より)
祭りは1年に3回行われていたが、決まった日ではなく、村々でまちまちだったようだ。
「この信仰の源は秩父の三峯山であるといわれるが、その流れを汲んで、遠い昔からどの村でも、「みつみね山」あるいは「三峯神社」と称して、祀ってきたのである。その場所は、放牧地または採草地への登り口とか、その道筋である。またお宮の建物とてなく、自然石や「三峯山」、「三峯神社」などと刻んだ切石の碑を立てているに過ぎない。・・・略・・・当番が立てられ、例によって餅米五合ずつを集め赤飯をつくり、組中の人たちがここにお詣りする。時には前森原(放牧場)を通り抜けししどの沢までお詣りにいく。この「しし」は獣を意味し、この場合は狼と考えられる。「ど」は閉ざす「戸」のこととすれば、昔、このあたりから狼が襲ってきたものだ。だから「おの原」の狼を、ここで祀らなければならない。いわばこの沢から出てこないように祀るのである。そこはかなりの山奥で、その沢いり(奥)に、ほら穴のようなところがあり、そこに赤飯をあげて拝むのであった。もちろん誰でもが行くわけではなく、元気な若者たちが何人か代表してのことだったそうである。」(『最上町史 下巻』より)
ここで狼は恐れられるものだった。その難を逃れるための祭りだった。そういう意味で、連載の第9回で紹介した岩手県や秋田県のオイノ祭り(狼祭り)と同じ意味がある。両者とも馬産地だった。
いつの時代の情報かわからないので、祭りはもう行われていないだろうとは思ったが、その痕跡を訪ねてみることにした。
まず、自然石の「おいのさま」の写真が載っていた最上町の笹森集落を訪ねた。
たまたま80歳くらいのおじいさんがいたので話を伺ってみたが、狼信仰・おいの祭りなど、聞いたことがない、碑なども見たことはないといった。
川向の人が昔の古いことを知っているかもと紹介されて、その家を訪ねた。
「昔この村で、おいの祭りという狼信仰の祭りが行われていたようなんですが、聞いたことないでしょうか?」
「狐に化かされた話は聞いたことはありますが、狼は知らないですね」
「お犬さま」「おいの」などの言葉も聞いたことはないという。対応してくれた人は昭和29年生まれだそうで、彼のおじいさんからもそんな話は聞いたことはないし、知らないという。念のために、奥の部屋にいた彼のお父さん(90歳くらい)にも確かめてもらったが、このお父さんでさえ、「おじいさんからも聞いてない」とのこと。
まぁそんなものだろうと予想はしていたが、碑くらいは見つかるのでは?と期待していたので、正直がっかりした。
しかし、「ここは東京オリンピックのころまで馬を飼っていたんです」といった。私はピクッと反応した。もともとここは馬産地だったというのは本当だったようだ。だから狼祭りが行われていたのだろうか。ただ、いつ頃まで祭りが行われていたかもわからない。
最上町本城の三峯神社
次は最上町本城に向かった。ここにも三峯神社があるとの記述があったからだ。
三峯神社を探して集落を周っていると、ある民家におばあさんがいたのであいさつした。三峯神社のことを聞いたら、「私はよそからきたので、お父さんに聞いてみます」といって、彼女の旦那さんを呼んでくれた。
旦那さんに三峯神社のことを聞いたら、「三峯山のことか?」というので、咄嗟に「そうです」と答えた。お祭りはやっていないが、ちゃんと注連縄もかけて、碑は祀ってあるということだった。
旦那さんから教えられたとおり、集落を抜け、ずっと田んぼの横の農道を進んでいくと、杭架けの稲が残る田んぼの近くで作業をしていたおじさんがいたので尋ねると、「三峯山」の碑は、その田んぼの真向かい側にあった。
木の鳥居の奥、1mほど高くなったところに大きな岩があり、その上、右側に「三峯山」の碑と、左側に石祠が鎮座している。年代はわからなかったが、祠の側面には人の名前らしいのが読み取れた。
祭りの場であった碑についてはこう書いてある。
「いたって粗末な碑で、自然石の場合が多い。なかには本城村の「三峯神社」と切石に刻んだ立派なものも残っている。」(『小国(最上町)の年中行事と祭事』より)
この史料に記載されているのは、まさにこの本城のこの碑のことらしい。最上町では立派な石碑だそうだ。
狼信仰はまた、狼の多産のイメージから豊作のイメージにつながったようで、稲作の豊作祈願にもなっているそうだ。まさに収穫を終えたこの田んぼの真ん前で「三峯山」の碑が見守るように立っているのは、なんだか象徴的な光景である。