本当の豊かさとは? 幸せとは?
漠然とした不安な心に禅を役立てるには、どうしたらいいのでしょうか。
臨済宗国泰寺派・全生庵の平井正修師に聞きました。
平井正修(ひらい・しょうしゅう)
臨済宗国泰寺派・全生庵住職。日本大学客員教授。1990年学習院大学法学部政治学科卒業。1990年静岡県三島市龍沢寺専門道場入山。2001年同道場下山。2003年より、中曽根康弘元首相や安倍晋三首相などが参禅する全生庵の第七世住職に就任。全生庵にて坐禅会、写経会を開催。主な著作に『最後のサムライ山岡鐵舟』(教育評論社)、『囚われない練習』(宝島社)、『「見えないもの」を大切に生きる。』(幻冬舎)、最新刊『13歳からの仏教塾』(海竜社)などがある。
禅は、人間が原点に立ち返る助けになる
宗教の原点は、人間が幸せになることにあると思います。とらえ方はそれぞれの宗教により異なりますが、どのような宗教でも、根源的な願いというのは、皆の心を安らげることにあるのではないでしょうか。
しかし、世界の現況を見れば、宗教の違いにより争いや差別が起こっている。それはとても悲しいことです。なぜ宗教で争わなければならないのか。人間は一度原点に返ってみる必要があるのかもしれません。
物流が進化し、人やものの往来が多様化するとともに、社会のグローバル化が進み、経済的には大きな発展を遂げました。果たして人間の心はそれに追いついているでしょうか。本来ならば、社会のグローバル化とともに、人間もお互いを認め合い、互いの宗教を尊重し合うような方向性を身に付けなければならないのだと思います。
一番の問題は、仕事や生活に追われ、心を見つめる時間がなくなってしまったことだと思います。
人が人である以上、心をどうしていくかという問題に向き合わないわけにはいきません。それなのに現在は、世界中で多くの人が、その時間を持つことができていないのです。
そのような状況に、禅はどのように関わっていくことができるでしょうか。
「禅とは心の名なり」という言葉があります。禅とは心そのものであるという意味です。禅は仏教の一宗派ではありますが、神仏について語らず、自分の心を自分で落ち着けていくことに、ひたすら向き合います。
一人ひとりの心が調うことを一番大切にしているので、スローガンのようなものを掲げないのです。だから、説き方次第では、日本だけではなくどこの国でも受け入れられるものだと思います。
そして、人間が原点に立ち返るための助けにもなるのではないでしょうか。
一度は坐禅をしてみてほしい。
日本という国を考えてみると、少子高齢化や年金問題などに関わり、多くの人が先行きへの不安を持っています。しかし、考えてみれば、現実的にこの瞬間が不安なのではなく、まだ現実にはなっていない漠然とした不安にとらわれているのが現状なのです。
それは、過去のどの時代でも同じだったのではないでしょうか。日本は格差が広がっていると言われていますが、世界的な基準で見れば、とても平等で豊かな国です。水道の蛇口を捻れば飲める水が出る環境が、世界にどのくらいあるでしょうか。私たちはその水を掃除に使ったり、トイレに流したりしているのです。
それでも漠然とした不安にとらわれ、豊かさを感じられない人が多いのですから、やはりもう一度、個々人が心に向き合わなければなりません。ものの豊かさだけでなく、心も豊かになる必要があるのです。
物質的な豊かさとは相対的なものですが、心の豊かさとは一人ひとりが感じるものであり、決して与えられるものではありません。幸せとは「なる」ものではなく、「感じる」ものなのです。それを体感するために、禅の修行の一つである坐禅が、役立つのではないかと、私は考えています。
私は日本に住む人全員に、一度は坐禅を体験して欲しいと願っています。その後、体験をどう感じていくかは、一人ひとりの問題です。しかし、一度でも体験してみれば、そのときはピンとこなくても、何か困難にぶち当たったとき、坐禅の体験を思い出し、後になってから役立つこともあるのです。
禅が広く求められ、外に向かっていくために。
そのためには、禅を一般の方にもう少し広く知ってもらうことが必要でしょう。その機会を提供するのが、禅宗の僧侶の役割だと感じています。今まで禅は、こちらから外側に向かうということをしてきませんでした。その理由は、禅が語れるものではないということもあるし、その人が求めなければ、どのような機会や教えを提供しても身にならないということもあります。しかし、私が住職を務める全生庵の坐禅会は、年々参加される方が増えています。社員研修に坐禅を取り入れる企業も、増加傾向にあります。禅が求められているということと、それに応えるために禅が外に向かっているという方向性は少なからず感じられるのです。
今後は私たち僧侶も、禅を広く知ってもらおうとする分は、さらに自分を律して、勉強していかなければなりません。禅とは何かを改めて自分に問いかけ、提供する側も原点に立ち返っていくことが、求められるだろうと思います。