手仕事は師匠から弟子に写し取らせることで継いでいく。それは二枚の紙を貼り合わせるかのようだ。ぴったり重なればそのまま伝承される。少しのずれは進歩か後退か。その判断は後世の人がする。ただひたすらに修業を積む。修業の場は実践の場。そこからやがて名工が生まれてくる。

さまざまな意匠が生まれるには、それなりの理由がある。

岩手県盛岡市紺屋町(こんやちょう)。通りに面して白いレンジ格子に、格子のガラス戸、紺暖簾(のれん)が架かったこぎれいな店がある。角形の白いディスプレーに「KAMASADA」の文字。民芸店風カフェのようにも見える。ここが鋳物師屋(いもじや)・釜定である。

初めてこの店を訪れた人は、ここが鉄瓶屋(てつびんや)かと疑うに違いない。だが、なかをのぞけば、灰皿や釜敷きが小上(こあ)がりの上に並べてあり、棚には幾つもの鉄瓶と、今ふうの鉄鍋や小物が展示されている。

伝統産業は、歴史を持つが故に、つねに難問を抱えてきた。
客には固定されたイメージがあり、それをもって品を選ぶ。それは過去の長い歴史が作ったものである。生活が変わり、価値観が変われば、古い物として忘れられていく。それを越えて前に進まなければ、生き残れない。つねに、古くて新しくなければならないのだ。

釜定はこの葛藤に三代にわたって取り組んできた。その姿勢が瀟洒(しょうしゃ)な店に現れているのだ。表(おもて)は主(あるじ)たちの決意である。

この場所に工房を構えて三代、釜定それぞれの主。

釜定の仕事は、本来は釜師(かまし)。茶道の茶釜(ちゃがま)を中心に、鉄瓶や他のさまざまな物を作ってきた。鋳物を作る工程は、簡単に言えば、鋳型に溶けた鉄を流し込んで、釜や鉄瓶を作ること。

南部(岩手県盛岡地方)でこの産業が発達し引き継がれてきたのは、材料の鉄が産出し、鋳型を作る良い砂があり、鉄を溶かす木炭が容易に供給されたからである。そして導入された技が磨かれ、評判を呼び、使ってくれる人たちがいた。大きな支えになったのが南部藩(盛岡藩)の庇護であった。

廃藩で援助を失った釜師たちは群雄割拠の時代に入る。時間は荒いヤスリであり、世間は気まぐれな篩(ふるい)である。ある者は削られてなくなり、多くの人が競争から消えていった。その中で生き残ってきたのが現在の鋳物師たちである。

明治・大正・昭和を生き、それぞれの時代に向き合う。

店と工房は明治18年生まれの初代の宮 定吉(みや・さだきち)が作った。
職人を抱え、鉄瓶や釜、鍋や雑器を作っていた。定吉は昭和6年46歳で亡くなった。

その後を二代目の昌太郎(しょうたろう)が継いだ。

彼は商業学校から国立の仙台工芸指導所金工科に進み、その後も彫刻の道を選択、各種展覧会や日展で活躍している。その間にヨーロッパにデザインの勉強に行き、日本デザイナークラフトマン協会設立に参加するという、鋳物師屋としては少しばかり変わった人だった。従来の徒弟制度の中からはみ出し、金工師(きんこうし)としての腕を磨き、作品を作り、デザインを研究し続けた。伝統や古典に自分なりの付加を付けたいと。

だが、昌太郎は鋳物師の仕事を見限ったわけではなかった。
稼業の鉄器に、洗練されたフォルムを取り入れ、新製品を作った。モダンなデザインの彼の作品はデパートのクラフトコーナーでも扱われ、人気の品として新たな道を拓(ひら)いた。その品々は今も釜定の定番である。初代の職人仕事に新たな価値を付け加えたのである。

つねに時代を映して輝く、それが生きた伝統品。

戦争は東北の町も巻き込んだ。

戦中に釜定は店も工房も全て取り壊されたが、敗戦と同時に、昌太郎は父の残したままの工房を再建、その後9年かけて、店も家屋も元通りに建て直した。それが今の姿である。その昌太郎が55歳で亡くなった。

後を継いだのが昭和27年生まれの三代目宮伸穂(のぶほ)である。

16歳のときに父を亡くしているので、直接仕事を仕込まれたわけではない。金沢美術工芸大学、東京藝大大学院にてデザインを学び、自らの道を模索した。フィンランドへのデザイン留学経験もあり、各国の展覧会に出品、さまざまな賞を受賞している。世界的に認められた南部鉄器の名工だ。

鉄という素材そのものに己の志を注ぎ込む。

こういうふうに見てくると、釜定の主(あるじ)たちは芸術指向のように見えるが、彼らが素材にしていた物の基本は鉄。

作業場は祖父の代からのもの。溶解炉(ようかいろ)が音を立て、積み上げられた鋳型用の殻(から)。土と砂、炭が長年積もった三和土(たたき=土間)。

さまざまな試みも、昔ながらに、鋳型を作り、鉄を流し込む鋳物師屋の作業から生み出していたのだ。やわらかで、重厚で、重量感を持つ鉄の良さをいかに活かすか。その道を模索し続けてきたのだ。

そうした試みは、みな茶釜や鉄瓶づくりに戻ってくる。

伸穂は、高周波の溶解炉を導入もするが、自分の考えに合う鉄を作るために甑(こしき)と呼ばれる素焼きの土器を使用した古来の鉄融解法も使う。日本刀製作に欠かせぬ玉鋼(たまはがね)作りでできる和銑(わずく=日本古来の砂鉄を炭で精錬した地金・じがね)も使う。

それは扱いづらいが独特の感触と錆色(さびいろ)を持つ。

試みねばわからぬことがあり、そこから技も智恵も生まれる。古来の方法の中に新たな鉄の良さを捜しているのだ。

鋳物師屋が伝統の技を使って、新たなフォルムを追求してきた。それが釜定三代の志である。その意志を表現したのが、店の佇(たたず)まいなのだ。

釜定の鉄器には常の挑戦が培(つちか)ったフォルムに物語と慈しみがある。

釜定 KAMASADA CASTING STUDIO

岩手県盛岡市紺屋町2-5 ☎019・622・3911

文: 塩野米松 Yonematsu Shiono

1947年生まれ。秋田県出身。東京理科大学理学部応用化学科卒業。作家。アウトドア、職人技のフィールドワークを行う。一方で文芸作家としても4度の芥川賞候補となる。絵本の創作も行い、『なつのいけ』で日本絵本大賞を受賞。2009年公開の映画『クヌート』の構成を担当。聞き書きの名手であり、失われ行く伝統文化・技術の記録に精力的に取り組んでいる。主な著書『木のいのち木のこころ』(新潮社)、『失われた手仕事の思想』(中央公論社)、『手業に学べ』(筑摩書房)、『大黒柱に刻まれた家族の百年』(草思社)、『最後の職人伝』(平凡社)、『木の教え』(草思社)など多数。