現存最古の望楼型天守を持つ、木曽川沿いの美しき国宝。 愛知県と岐阜県の県境。悠々と流れる木曽川を見下ろす丘陵に立つ犬山城は、天文6(1537)年に、織田信長の叔父である織田信康が築城したと伝えられる城です。国内屈指の稀有な経歴を持つ城を、後世に残すために尽力されている日本最後の「本物の姫」、第12代犬山城主・成瀬正俊の長女である成瀬淳子さんにお話しをお伺いしました。

現存最古の望楼型天守を持つ、木曽川沿いの美しき国宝

愛知県と岐阜県の県境。悠々と流れる木曽川を見下ろす丘陵に立つ犬山城は、天文6(1537)年に、織田信長の叔父である織田信康が築城したと伝えられる城です。青空の下、威風堂々とそびえる天守は3重4階、地下2階。2重櫓の上に小さな望楼を載せた古式な望楼型天守(※1)で、現存最古といわれる貴重なもの。

背後に断崖絶壁、その下に木曽川が流れる典型的な「後ろ堅固」の城で、城と城下町が一体となって外堀の中に囲われた、いかにも軍事拠点にふさわしい造りです。

しかし、実際は、「白帝城」の別名を持つほど美しい川岸の城を、多くの人が眺めに訪れた……という記録も残されており、戦国時代の真っただ中に築かれていながら、どこか優雅。木曽川の対岸から犬山城を望めば、家康や秀吉らが駆けたこの地で、「戦乱のことなどどこふく風」と、飄々と佇む風景が目に浮かぶかのような、不思議な城なのです。

織田信康の後に池田恒興(つねおき)、石川光吉、小笠原吉次と目まぐるしく城主が変わりましたが、江戸時代に入ると、徳川家の重臣・成瀬正成が入城。以降、幕末まで成瀬家が城主となりました。慶長年間に発布された一国一城令や、明治の廃藩置県を経てもなお存続し、1度は県の所有となるも、明治28(1895)年の濃尾地震をきっかけに、再び成瀬家のもとへ。その後、なんと2004 年まで、「個人所有の城」であり、「個人所有の国宝」であったのです。

国内屈指の稀有な経歴を持つ城と、日本最後の「本物の姫」であり、犬山城と共に新たなスタートを切った、成瀬淳子さんを訪ねました。

犬山城は、成瀬家にとって家族のような存在

拝領400年。成瀬家にとって家族のようにかけがえのない城。「今日は犬山城、機嫌が良さそうです」。満開の桜の下、お城を背景に笑顔を見せながらそう呟いたのが、成瀬家の12代目城主の長女であり、犬山城の財団法人化を果たした成瀬淳子さん。思わず、「お城の機嫌がいいのですか?」と尋ねると、「犬山城は、成瀬家にとって家族のような存在であり、手のかかる弟のようなものなんです」と、笑います。

「犬山城って、本当に自分本位でわがままなんです。自分が主役の撮影はカラッと晴れるくせに、私がメインの撮影のときは雨ばかり。ごく最近まで、私と犬山城のツーショットは絶対撮れないって、ちょっと有名だったんですよ。そういうところも含め、イケメンなこのお城が大好きなんですけれどね」

犬山城と成瀬家の付き合いは、2017年でちょうど、400年になりました。尾張徳川家の付家老(※2)だった成瀬家は、徳川将軍家からいただいた犬山城を代々、大切にしてきました。

※2)付家老(つけがろう)=ここでは、徳川御三家に徳川家康から付けられた家老を指す。「五家」と呼ばれ、将軍に謁見できるほどの力があった

4階の「高欄の間」には廻縁がめぐり、北に木曽川、南に小牧城などを望む。小牧城が立つのは、かつて正成が初陣を飾った縁の地。成瀬家の歴代城主は、この地を眺め、気を引き締めたのだろう。

9代目の正肥(まさみつ)の時代に、江戸幕府が幕を下ろし、時代は明治へ。廃藩置県によって、犬山城も天守を残してほとんどの建物が壊されました。しかし、それから20年後に濃尾地震で天守が半壊。廃城という話も出たものの、城下の人々の「犬山城を残したい」という嘆願があり、愛知県が成瀬家に修復を条件に無償で払い下げました。

無償とはいえ、その修復費は当時で4500円。現代の貨幣価値にして数億円になったといいます。成瀬家が奔走して集めた資金と、犬山町民の義援金により、無事に修復されて今日にその姿を残した犬山城。成瀬家が、「平成の城主」となる数奇な運命の始まりでもありました。

「犬山城は、なぜか成瀬家に帰ってきてしまうんですよねえ。私のことだって、いまだに〝僕の家老だ〞と思ってるんじゃないかしら」と、淳子さん。尾張藩の重臣・成瀬家とは、どんな家だったのでしょうか。

初代・成瀬正成から、淳子さんの父親である12代・成瀬正俊まで、12名の肖像画が飾られている。確かにこの場所にいた代々の城主の姿が、犬山城と成瀬家の歴史を静かに語りかけてくるようだ。

徳川家康の秘蔵っ子だった成瀬家の初代、正成。

成瀬家で最初の犬山城主となった正成は、数え年で7〜8歳のときに家康の小姓として城へ上がりました。成瀬家に残る書物や歴史資料などを当たった淳子さんは、当時の風景を想像しながら、こう語ります。

「当時、家康は30代。小さな正成が、お役に立ちたくてちょこちょこ動きまわっている姿が可愛くて、いろいろなことを、家康本人が教えたのではないでしょうか? また、正成からしても、初めて間近で見た武将が、脂の乗った30代の徳川家康。子供心にも、キュンと来たでしょうね。

『一生この人に着いていこう、この人を天下人にしてみせるんだ』と思ったのではないでしょうか」

にも、正成が豊臣秀吉から「5万石与えるから家臣にならないか」と誘われ、外交のために家康からも秀吉の下へ行くよう言われたとき、正成は「二君に仕えず」と、切腹を宣言。慌てて家康が話を取り消したという逸話も残っているそうです。

「そのとき正成は、はらはらと涙を流したと書かれているんですよ。戦国武将が、嘘でしょう? と思いますよね。まるで家族のように、強い絆で結ばれた間だったようです」

初代・成瀬正成から、淳子さんの父親である12代・成瀬正俊まで、12名の肖像画が飾られている。確かにこの場所にいた代々の城主の姿が、犬山城と成瀬家の歴史を静かに語りかけてくるようだ。

徳川家の付家老として活躍。厳しい家訓に強く優しい人柄が。

天下人・家康の信頼厚く、周囲からも一目置かれていた正成は、やがて付家老になり、そこから成瀬家は代々、犬山城主と尾張藩の付家老を務めてきました。正成の芯の通った人柄は、前述の一人と定めた主君に忠義を尽くすことの他に、成瀬家に伝わる御遺訓(※3)からもうかがうことができます。「家臣が事件を起こしても、すぐに処罰してはいけないという一文があります。また、大切な酒席には必ず出るべし。ただし、長く飲んではいけない、なども」と、淳子さん。

前者は、罪を犯した者の言い分にも耳を傾けよということ。実際、8代目正住(まさずみ)は登城を拒んだ部下から、約3年も辛抱強く話を聞いたと伝わります。後者は、楽しい酒の席に偉い人間がいつまでもいると若手が気を遣うからという教え。当時では非常にめずらしい考えで、成瀬正成は、現代的な思考を持った優れたリーダーでもあったようです。

犬山城を舞台の一つとして繰り広げられた「小牧・長久手の合戦」を描いた屏風。豊臣秀吉と、織田信雄・徳川家康軍の戦いで、成瀬正成の初陣でもあり、この屏風にも正成の姿が2カ所に描かれている。(絵の中の赤丸の人物)。犬山城白帝文
(左)犬山城は、木曽川を背に、本丸、杉の丸、樅の丸、桐の丸、松の丸を南方に階段状に連ねて配置してあった。城下町と一体になった「総構え」の城である。(右)初代・成瀬正成肖像画。徳川家康の側近として生涯仕えた。正義を重んじる余り、厳しい面もあり、若い頃に放蕩者であった嫡男・正虎を養子に出してしまい、家康が間を取り成したという話も残る。白林寺蔵(名古屋市中区)

偶数代は自由人、奇数代は苦労性?時代時代の城主が愛を注いだ城。

初代・正成の教えは子孫へと着実に受け継がれ、成瀬家は2代目以降も義を重んじながら尾張徳川家を支えました。

「不思議と、偶数代は自由人が多くて、詩や芸事を好む人が多いようです。奇数代はしっかり者が多く、城の修繕をするのは奇数代なんです」

中にはほとんど犬山城にいなかった城主もいたようですが、大手門の中に水時計を作った3代目、上段の間を作った7代目と、時代ごとに犬山城に手を掛けてきたそうです。

そして現代。成瀬家13人目となる成瀬淳子さんは、犬山城の舵を未来へ向けて大きく切りました。戦国時代を駆けた由緒ある武将の家が守った城の気品を大切にしたい。

城の南に広がる城下町は、区画割や道路幅も当時のままだそう。建物が新しくなっても、見上げる丘の上に犬山城が白く輝く風景は、400年以上前の人々が見たそれと変わらない。目を閉じると、往時の賑わいが浮かびそうだ

「こうした歴史をひもといて行くと、自分の生き方が見えてくる気がするんです。犬山城は、由緒ある戦国武将の家系が代々守ってきたんだということを誇りに思いますし、だからこそ、お城が持っている〝気品〞を大切にしたい。そのためには、私が犬山城の品格を落とさない生き方をしなくてはいけないし、守らなくてはいけないんです」と、淳子さん。

現在、日本の城郭は99%が行政の所有で、犬山城のみが財団所有。近年まで個人所有だったこともあってか、他のお城にない「生きているような」雰囲気があると、淳子さんは語ります。その雰囲気を崩さず、後世へ伝えて行くために、2004年、成瀬家悲願でもあった財団法人化を果たしました。

36歳で犬山城を守ると決意。

父・正俊氏へ最高のはなむけを。「成瀬家は、犬山城のために、家が傾くほどお金に苦労してきたんです。私の家族は東京にいたのですが、犬山市に台風が近付くと、両親が一睡もせずにテレビを見ていたのが印象的です。扉一枚を直すにも数百万円が掛かるんですから」

かつて、城を持てるのは大名でも二万石以上の領地がある殿様だけだったそうです。それだけ、城の維持にはお金が掛かるということ。現代で、個人でお城を所有するというのがどれほど大変かは想像に難くありません。成瀬家は、これまでも何度か財団法人化を試みたものの、国宝ということもあり、なかなか話が進まなかったそうです。

36歳のとき、犬山城を継ぐ決意をした淳子さんは、城を守っていくためには、今度こそ財団法人化するしかないと、4年の月日をかけてついに公益財団法人・犬山城白帝文庫を設立しました。

野心家で、常に江戸を見据えていたという7代目・正壽(まさなが)が作らせた「上段の間」。背後には武者隠しがある。正壽はほとんど犬山城にいなかったが、最上階にペルシャ絨毯を敷くなど、城内にさまざまな手を加えた。

この頃、淳子さんの父であり、最後の城主でもある12代目・正俊さんは、難病に苦しみ、病床にあったそうです。「財団法人設立」を告げたとき、淳子さんにとって辛い願いを口にされました。

「『役目は終わった。そろそろ(逝っても)よろしいかな』と言われました。でも、私は『いいえ、正式な認可が下りるまで、あと4年は頑張ってもらわないと』と言ったんです」

親に生きてほしい一心からの言葉でした。病に苦しんでいた正俊さんからは「親不孝者」と怒鳴られたといいますが、それからきっちり4年と4日後、満開の桜の中を、正俊さんは旅立ったそうです。

犬山城最後の城主が、最愛の娘の新しい出発を見届けて舞台を降りた、見事な最期でした。

個人から、みんなのお城へ。犬山城の新しい歴史が始まる。

「犬山城は、父が最後の城主であり、私は犬山城をお守りする、成瀬家の13人目、そして初代理事長です。これからの犬山城はできる限り、周りの方のご理解の中で生きて行ってほしいと思っています」と、淳子さん。

犬山城は、犬山市の観光の中心であり、今や年間50万人が訪れるほど。だから、修復もせっかく来てくれた観光客をがっかりさせないように、〝見せる修繕〞をしていくそうです。

そのために、10年前から修繕箇所を調査し、観覧に影響が出ない修復方法を技術者たちと相談しながら進めているのだといいます。

「犬山城は、国内でも稀有な、自分で自分の修繕費を積み立てているお城。みなさんが遊びに来てくれた入場料を、未来も愛される城であるよう生かしていきます」

戦国時代に生まれた城が、平成から令和へ、新たな歴史を歩み始めました。ぶん