戦国期から江戸初期にかけて大量の銀を産出した石見銀山。良質なその銀はアジアやヨーロッパの国々との交易に使われ世界に流通しました。その鉱山遺跡と昔ながらの町並みを残す採鉱集落、搬路となった街道や積み出し港を含めた一帯が、2007年に世界遺産登録されました。

龍源寺間歩窟内。江戸中期に開発され、坑道の総延長は約600m、そのうち160mほどが公開されている。

銀1万貫は米に換算すればほぼ100万石

石見銀山は島根県のほぼ中央に位置し、日本海から6㎞ほど内陸部に入った仙ノ山一帯に鉱脈が通じていました。最盛期は17世紀初頭で、当時、世界で流通していた銀の約3分の1は日本産で、その大半はここ石見産。山あいの小村は大いに繁栄し、諸国から職人や商人が集まり人口20万を数えたと言われます。

銀山の発見は鎌倉末期で、周防国を治めていた大内弘幸によると伝えられています。本格的な採掘は戦国時代になってからで、博多の商人神谷寿貞(かみやじゅてい)が沖合を航行中に山が光るのを見て開発に乗り出し、仙ノ山中腹で銀の掘り出しに成功しました。その後、朝鮮半島から灰吹法(はいふきほう)と言われる効率的な製錬法が入り、石見銀山の産銀量は飛躍的に増加しました。

灰吹法は灰の上に金銀と鉛の混合物を置いて加熱し、鉛を溶かして灰に吸収させ、残った金銀を取り出すという製錬法です。以後、この技法は但馬(たじま)の生野銀山や佐渡金山など各地に伝えられ、多大な利益をもたらしました。

銀山の盛況が伝えられると周辺勢力による激しい争奪戦が繰り返され、戦国末期には中国地方を制した毛利氏の支配になりました。銀山を手中にした利益は莫大で、銀1万貫は米に換算すればほぼ100万石に相当しました。

シルバーラッシュを実現した大規模採鉱法

毛利氏が豊臣政権下に組み込まれると、秀吉は奉行を派遣して毛利氏配下の奉行と共同で銀山を管理させました。これにより石見銀山は豊臣政権の重要な財源の一つとなって、朝鮮出兵ではこの銀が大量に使われました。

秀吉の死後、徳川家康が天下の実権を握ると、家康は銀山を接収して配下の大久保長安を奉行に任じました。長安は鉱山開発に才能を発揮し、山師安原伝兵衛らを使って大規模開発を行い大幅な増産に成功しました。また、長安は佐渡金山や伊豆銀山奉行も勤め、そこでも多大な成果を挙げて家康を喜ばせました。

銀山の隆盛は17世紀半ばまで続きますが、以後、産出量は低下の一途をたどりました。採掘用の坑道は間歩(まぶ)と言われ、最盛期にはその数は銀山全域で600口以上ありましたが、江戸中期になると採掘が行われていた間歩は55口、末期にはわずか14口に激減しました。

幕末の動乱期には、毛利氏が石見国を取り戻して再び銀山を支配下におきました。維新後は一時官営になったのち、民間に払い下げられて再開発の試みが続けられましたが、さしたる成果は得られませんでした。第二次大戦中には銅の採掘が行われましたが、坑道の水没などにより閉山を余儀なくされました。

整然と積み上げられた石垣だけが残る清水谷製錬所跡

良質な銀を産することで知られた「銀鉱山王国」

いずこも鉱山労働は苛酷なことに変わりはなく、ここ石見でも坑道内の出水、高温多湿、鉱滓(こうさい)や煤塵ばいじんなどの劣悪な環境、また灰吹法では酸化鉛の粉塵による中毒などで、労働者たちの寿命は長くはありませんでした。そのため30歳まで生きられたら長寿とされ、尾頭付きのタイと赤飯で祝いをしたと言われます。

このような苛酷な環境下で生産された灰吹銀は、はじめは鞆ヶ浦(ともがうら)や沖泊(おきどまり)の港から船で搬出されましたが、江戸時代以降、冬の荒れた日本海の航行を危惧して中国山地越えのルートが整備され、瀬戸内海の尾道経由で海路大坂に運ばれるようになりました。陸路の輸送にあたっては、街道筋の村々に人馬の負担を強いましたので争議になることもありました。

商取引に使われたのは、灰吹銀を加工した石州丁銀やその後の幕府による慶長丁銀で、基本通貨として広く国内に流通しました。丁銀とは金額の記載はなく、重さを計って交換価値を算出する秤量貨幣(しょうりょうかへい)のことで、金額に応じて切り分けて使われることもありました。

16世紀以降、海外との交易で石見産の銀が大量に使われたことで銀山の存在が世界に知られ、ヨーロッパで作成された日本地図には「銀鉱山王国」などと記載されていました。

大森代官所跡の表門と門長屋。内部の役宅跡は石見銀山資料館になっていて採鉱製錬用具などが展示されている。

最盛期の息吹を伝える遺構と趣ある古い町並み

石見銀山の世界遺産登録にあたっては、大規模な鉱山開発にもかかわらず周囲の自然を損なうことなく、継続的に植林を行うなど常に環境に配慮し、自然と共生しながら鉱山の運営が行われてきたことが評価されました。

遺産の中心は多数の採掘遺構が点在する銀山柵内と言われる一帯で、最も深い大久保間歩や保存状態のよい龍源寺間歩などの主要坑道のほかに、要塞のように9段の石垣を積み上げた製錬所跡などが往時を偲ばせています。

鉱山町として繁栄した麓の大森は、江戸時代初期に代官所がおかれたことに始まります。町並みは銀山川沿いに細長く開け、武家屋敷や商家、一般住宅が混在し、どの家もこの地方特産の赤い石州瓦で屋根を葺いています。

山あいに昔ながらの家並みを残す大森地区。かつての銀山の中心地で、最盛期には諸国から人が集まり、この狭い一帯に人口20万、家屋2万6000軒余を数え大いに賑わったという。

二つの銀積み出し港のうち、沖泊港のある温泉津ゆのつは毛利氏の支配時代に始まり、幕府直轄地になってからは日本海有数の港湾都市として発展しました。町中には昔ながらの家並みがよく残り、大森地区とともに国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

地元では環境への配慮が遺産登録の評価ポイントになったことから、観光客へはエコな見学を呼び掛け、環境負荷の少ない観光モデルの確立に向けた努力が続けられています。

岩見銀山

〒694-0305 島根県大田市大森町イ1597−3