奈良時代後期に創建され、藤原氏の隆盛とともに栄えた春日大社。歴代天皇や貴族の崇敬も篤く、中世以降、その信仰は庶民の間にも広まり、今日では全国に3000に及ぶ分社が鎮座します。平成10年(1998)、当社と春日山原始林を含む8件の資産が「古都奈良の文化財」として世界遺産登録されました。

藤原氏の全盛期に授かった最高位の神階

古来、神の降臨するところとして神聖視された御蓋山(みかさやま)。これをご神体としてその麓に鎮座(ちんざ)する春日大社は奈良時代後期の神護景雲(じんごけいうん)2年(768)、藤原氏によって創建されたと伝えられています。しかし、近年の調査で奈良時代初期の築地塀(ついじべい)跡や古い祭祀(さいし)遺物が発見されていることから、すでにそれ以前にこの地で祭祀が行われていたと考えられています。

主神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)で、現在の茨城県の鹿島神宮から白鹿の背に揺られてこの地にやってきたとされ、ここでは鹿は神の使いとされています。その他、経津主命(ふつぬしのみこと)は千葉県の香取神宮から、天児屋根命(あめのこやねのみこと)とその配偶神とされる比売神(ひめがみ)は大阪府の生駒山西麓の枚岡(ひらおか)神社から勧請され、これら4神が祭神として鎮座しています。比売神は女神であることから、後には天照大神として信仰を集めました。

平安時代に入り、藤原氏が天皇の外戚(がいせき)(皇后・王妃の一族)になるなど、一族の繁栄は春日大社にも及び、神域の大拡充、社殿の造営、末社の配置などが行われ、すでにこの時代にほぼ現在の全容に整えられました。そして神官や神社に奉仕する神人(じんにん)(神職)を増やして、大和国の総鎮守としての役割も担いました。

その頃から天皇の行幸(ぎょうこう)もたびたびあり、例祭の春日祭には毎年かならず天皇の使者が参加して祭儀が執り行われました。嘉祥3年(850)には武甕槌命と経津主命、天慶3年(940)には天児屋根命が、朝廷より最高位である正一位の神階を授かり、名神(みょうじん)大社(*1)に列せられました。

(*1) 延喜式に定められた社格で、特に由緒正しい神社の霊験に優れた祭神を名神と称し、国家の大事には国で祈願の幤帛(へいはく)を供えることになっていた。延喜式は律令に関する施行細目で延長5(927)に集大成された。幤帛は神への奉納品の総称。

西廻廊に見られる釣灯籠。釣灯籠には室町から江戸時代にかけての名品が多く、亀甲や連子格子、松竹梅に唐草など、さまざまな紋様が施されている。西廻廊には内侍門(ないじもん)、清浄門、慶賀門3門が設けられている。

徳川政権の手厚い保護により往年の繁栄再び

藤原氏の氏神と氏寺の関係から、春日大社と興福寺(こうふくじ)の関係は深く、神仏集合が進むと両者は一体化し、春日社興福寺と称しました。そして4柱の祭神は、武甕槌命は不空羂索(ふくうけんさく)観音、後に釈迦如来、経津主命は薬師如来、天児屋根命は地蔵菩薩、比売神は十一面観音の化身とされました。

以後、次第に興福寺が支配力を強め、長承(ちょうしょう)4年(1135)の若宮社創建も関白藤原忠通とされていますが、興福寺衆徒によるとする説もあり、翌年から始まる若宮御祭も江戸時代までは興福寺の主催でした。それでも春日信仰は、藤原氏や春日社興福寺の所有する各地の荘園に分祀されたり、藤原氏有縁の在地領主による勧請(かんじょう)(分霊を迎えて祀る)もあって大いに栄え、神事や法会も盛んに行われました。

南北朝期の永徳(*2)2年(1382)、春日大社は失火で全焼しますが、足利三代将軍義満の援助により復興、以後、歴代将軍の保護を得られるようになりました。しかし、戦国時代になると公家や武家の保護を失い衰退しますが、各地に春日講が結成されて信仰は庶民の間に広まりました。

以前の隆盛を取り戻したのは徳川氏の世になってからで、現在の社殿や諸施設の多くはこの時代に再建されました。

維新後は神仏分離により興福寺の支配は終わり社頭から仏教色は一掃され、明治4年(1871)には官幤大社(*3)に列せられました。そして戦後の昭和21年(1946)に、それまでの春日神宮から春日大社に改称し、現在にいたっています。

(*2) 永徳は北朝の元号、南朝では弘和。

(*3) 旧社格の一つで、国が幤帛を供えた神社。明治時代には祭礼ごとに皇室が幤帛を供えた。大社以下、中社、小社、別格官幤社があった。

春日大社中門。国の重要文化材で、ここを入ってさらにその奥に本殿があり、4神を祀る4棟の建物が並ぶ。中門の前庭は「林檎の庭」といわれ、春日祭は、ここを中心に行われる。

千古不易の森に現出する幽玄の世界

奈良市街の東部に広大な神域を有する春日大社の登録資産面積は、実に93ヘクタール余りに及びます。長い参道をたどったその奥にある本殿は、東から西へ軒を接して並立する朱もあざやかな4棟の建物からなります。建物は切妻造妻入り(*4)、正面に向拝(ごはい)といわれる庇(ひさし)を掛け、檜皮葺(ひわだぶき)(*5)の屋根は優美な曲線を描きます。この社殿様式を春日造といい、現在の建物は江戸末期の文久3年(1863)の再建ですが、創建当時の姿をよくとどめ国宝に指定されています。

“お春日さんの万灯籠”で知られる境内の石灯籠、釣灯籠はおよそ3000基、参道両側に苔むしたまま延々と連なる石灯籠を正確に数えられたら長者になれると言われていました。その多くは庶民の寄進によりますが、最古のものは平安期の作です。

社殿や廻廊を飾る釣灯籠で最古のものは室町期の作、いずれもさまざまな紋様や家紋が透かし彫りで描かれ、節分の夜と8月15日の万灯籠では石灯籠とともに灯が入り、千古不易の森に幽玄の世界を現出させます。

境内の灯籠にいっせいに火が灯る万灯篭。一時中断していたが、明治21(1888)年より復興された。幽玄なその光景は奈良の風物詩。

春日大社の例大祭は3月13日の春日祭、京都の賀茂祭や石清水祭とともに天皇の命令で行われる3勅祭(ちょくさい)の一つです。まさに藤原氏全盛期の再現で、平安朝以来の伝統の装束をまとい東遊(あずまあそび)や和舞(やまとまい)が奉納されます。

師走の奈良は若宮おん祭で賑わいます。深夜に松明を点して神霊を仮神殿に遷す遷幸の儀が行われ、平安以降のさまざまな時代の装束をまとった行列が華やかに練り歩きます。

(*4) 切妻造は1本の棟をはさんで山型に屋根を組んだ切妻屋根の建物。切妻屋根の棟両端部で屋根荷重を支える断面を妻といい、その面に出入口を設けた建物を妻入りという。棟は二つの傾斜した屋根面が交わる最上部の水平部分。

(*5) 檜の皮で屋根を葺く工法。

参道の両側に所狭しと並ぶ石灯籠。形は四角、六角、円形などなどさまざま。最古のものは保延3(1137)年、関白藤原忠通の寄進。

1000種の植物が混成する原始の森

『万葉集』にも詠われている春日山とは、御蓋山をはじめ春日大社の背後に連なる山並みをいいます。その森は神域として承和8年(841)以来樹木の伐採が禁じられたため今なお原始性を保ち、都市近郊にありながら林相も豊かで学術的価値も高いことから昭和30年(1955)に特別天然記念物に指定されています。

ここは気候帯としては暖帯北部に属しますが暖帯南部の植物が非常に多く、特に暖地性の常緑高木ナギの林などは冬の寒いこの地で自生するのは珍しいことです。うっそうとした林内ではやはり暖地性のツル植物やシダ植物などの繁茂も盛んで、さらにその中に温帯性の樹木が分布錯綜し、ここに混成する植物はおよそ1000種を数えるといわれます。

平成14年(2002)には原始林を対象とした調査が行われ、1400本余りの巨木が確認されています。

原始林内の一部には春日奥山巡りのドライブウェイが通じ、車窓から森の幽邃(ゆうすい=奥深く静か)なたたずまいを間近にできますが、林床への立入りは禁じられています。また、若草山山頂からは眼下に濃淡の緑をびっしり塗りたくったような原始の森が広がります。

この原始林が世界遺産登録されたのは、社殿と一体になって文化的景観を構成する資産として、奈良の景観保全上重要な役割を果たしている点が評価されてのことです。森に神性を覚え、畏れ敬い、手を入れずに大切に守る、ここではそんな信仰と自然との共生の思想がうかがえます。

中門を挟んで内院を過酷御廊(おろう)。この廊が、社僧の読経所とされていた。正面の建物は東廻廊の一部で、背後には御蓋山の豊かな緑が迫る。

参考
『奈良古社寺辞典』吉川弘文館、2009