平安末期、奥州藤原氏により仏教の教えに基づく理想郷の実現を目指して開かれた平泉。都を遠く離れた陸奥の地に3代100年に及ぶ絢爛華麗(けんらんかれい)な平泉文化が花開き、建築、庭園に代表されるその遺構群が2011年、世界遺産登録されました。
文 : 藤沼 裕司 Yuji Fujinuma / 写真 : 青柳健二 Kenji Aoyagi
都人に珍重された陸奥の特産品
陸奥のほぼ中心に位置し町域の中央を北上川が流れる平泉は古くから水陸交通の要衝で、嘉保元年(1094年)、12年に及ぶこの地方の争乱を鎮めた藤原清衡(きよひら)が、ここを拠点に現世における浄土世界の創出を目的とした街づくりに取り組みました。
清衡は百足(むかで)退治伝説で知られる俵藤太秀郷(ひでさと)の末裔で、当時の支配域は現在の東北地方全域に及んでいました。この広大な地域を統治するためには、どうしてもその中心に拠点をおく必要があり、そのため清衡は南端の白河の関から津軽半島の海岸線にいたる街道を整備するとき、1町(約109m)ごとに卒塔婆を立てさせて平泉が中心であることを確認したといわれます。
当時、中央から見れば陸奥は文化果つる僻遠(へきえん)の地、清衡は都人の偏見や差別に対し、武力ではなく独自の文化の構築に努めました。清衡の目指すところは単に平泉のみとどまらず、陸奥全域を視野に仏教を基盤とした平和の確立にありました。この理念は清衡以降の2代基衡(もとひら)、3代秀衡(ひでひら)にも一貫して受け継がれました。
そして陸奥経済安定のために特産品の保護管理、中央への安定的供給に努め、平泉に莫大な富をもたらしました。陸奥には埋蔵量豊富な砂金があり、特産品としては良馬、漆、絹布、各種皮革製品など、北方からはアザラシの皮、タカやワシの羽がもたらされました。これらの品々は都人に大変喜ばれ、陸奥の豊かな物産に魅せられた諸国の商人が集まり、平泉は大変な賑わいを呈しました。
金色燦然たる藤原3代の廟所
平泉文化の中心中尊寺は、寺伝によれば嘉祥3年(850年)に陸奥を旅行中の円仁えんにん(えんじん)が創建した弘台寿院(こうだいじゅいん)が前身といわれます。そして長治2年(1105年)に、清衡が陸奥争乱の犠牲者を弔うために堂宇の大々的な整備に着手、全容を整えるまでにそれから21年もの歳月を要しました。
中尊寺の号については陸奥の中心にちなむなど諸説いわれますが、清衡の中央から独立した陸奥文化構想の頂点に中尊寺が位置づけられていたことに由来するともいわれます。
『吾妻鏡』によれば最盛期には堂塔40余、僧坊300余を数える大伽藍を誇りましたが、中でも特筆すべき建物は松尾芭蕉の「五月雨の降りのこしてや光堂」の句でも知られる金色堂です。約5.5m四方の小さな阿弥陀堂ですが、屋根を除く堂の内外ともに黒漆塗りに金箔を重ね、内陣の造形は隅々まで繊細で精緻、極楽浄土さながらに金色燦然たるそのたたずまいは、当時の美術工芸の粋を結集した最高傑作とされています。
金色堂の完成は天治元年(1124年)、都から鍛冶、金工、漆工など一流の工人が集められ、着工から15年を要しました。建立の目的は清衡の廟所(びょうしょ)とするためで、清衡は完成の4年後に世を去りその亡骸は棺に納められたままここに安置されました。さらに基衡、秀衡もこれにならいましたが、日本ではこのような埋葬例は他になく、清衡がこれを望んだのか、あるいは周囲の人間の決断によるのか、いまだ解明されていません。
藤原氏滅んで平泉の諸寺は衰退
平安期の典型的な浄土式庭園が残る毛越寺(もうつうじ)は中尊寺同様円仁の開基で、基衡が再建に着手し、これを引き継いだ秀衡のときにはその規模は中尊寺をしのぎ堂塔40余、僧坊500余を数えました。また、基衡夫人はこの東隣りに観自在王院(かんじざいおういん)を、秀衡は西に金鶏山を望む地にことごとく宇治平等院を模した無量光院(むりょうこういん)を建立しました。これらはいずれも浄土庭園を備えた寝殿造(しんでんづくり)と考えられています。
これらの寺院の周辺に政庁の建物や一族郎党の屋敷が甍を連ね、街の南北には幅30mの大路が走り、これに交差して東西に道が通じて碁盤目状を形成し、文字通り陸奥の政治文化の中心として繁栄を謳歌しました。
しかし、源氏の世になった鎌倉時代、兄頼朝と不和になってここに逃れてきた義経を自刃に追いやったことから鎌倉方に攻められて藤原氏は滅亡、平泉は灰燼に帰しました。これ以後平泉の諸寺は衰退の一途をたどり、中尊寺は野火により金色堂と経蔵を残して焼失、毛越寺も再三の野火や兵火により伽藍を失いました。
長らくこの一帯は芭蕉の「夏草や」の句に詠まれているような荒寥とした様相を呈していましたが、維新後、古社寺保存法が定められ、中尊寺金色堂の修理、本堂の再建が進められ、毛越寺跡など三つの遺構が史蹟に指定されました。
第二次大戦後には金色堂の解体、修理が行われ、観自在王院跡や毛越寺庭園の整備、復元などにより歴史遺産の回復に努め、のちの世界遺産登録につなげました。
浄土庭園では池そのものが浄土
平泉の世界遺産登録名称は「平泉仏国土(浄土)を表す建築、庭園及び考古学的遺跡群」、対象資産は中尊寺(金色堂、同旧覆堂、経蔵、大池跡)、毛越寺(庭園、常行堂)、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山の5カ所です。金鶏山は平泉の中心部にある小丘で、浄土庭園の背景を構成するなど他の4資産との視覚的な結付きをもつ聖なる山とされています。
これらの中で特に金色堂と浄土庭園は、仏教文化の深奥に迫ることで現世に浄土世界を表現した優れた芸術作品として高く評価されました。そして中尊寺大池跡、毛越寺庭園、観自在王院跡、無量光院跡の四つの庭園遺構については、外来の仏教と日本古来の自然信仰の融合による自然観に裏付けられた庭園形態を顕著に残している点が評価されました。
浄土庭園では、池は寝殿造庭園のような遊興の場ではなく浄土そのもので、毛越寺庭園では優美な曲線を描く汀は極楽浄土の象徴とされ、池中に立てられた石は須弥山(しゅみせん)に見立てられます。この毛越寺庭園は平安中期の造園指南書『作庭記』の記述に忠実に施工されており、遣水を含めて園池全体をほぼ完全な状態で残す唯一の遺構として、庭園史研究のうえでも貴重な事例になっています。
平成23年に、中尊寺など五つの資産の世界遺産登録が認められましたが、平泉町ではさらに藤原氏の政庁兼居館であった柳之御所遺跡など、平泉とその周辺に残る五カ所の関連資産の追加登録を目指しています。