明治新政府の殖産興業政策の一貫として始まった富岡製糸場。洋式機械による品質向上と大量生産を実現して、絹産業の飛躍的な進歩を促しました。今も残る当時の建造物群と近隣の関連諸施設の歴史的、文化財的価値が認められ、2014年に世界遺産登録されました。
文 : 藤沼 裕司 Yuji Fujinuma / 写真 : 青柳健二 Kenji Aoyagi
Keyword : 富岡市製糸場と絹産業遺産群
フランス人指導者を招いて近代化に着手
ようやく海外に門戸を開き欧米との交易が始まった幕末の日本。当時、最も重要な輸出品になっていたのが生糸ですが、手動による伝統的な製法で品質は安定せず、粗悪品も出回って世界市場での評判はけっしてよいとは言えませんでした。外国商人出資による製糸場建設の提案もありましたが、明治政府はこれを断り、独自に工場建設に着手しました。
その基本構想は、洋式機械の導入、外国人指導者の雇用、全国から工女を募集し技術を修得させてから出身地に帰して指導者にさせる、というものでした。さらにここをモデルとして、このような工場を全国に展開し最新の製糸技術の普及と増産を図ろうとしました。
指導者として雇用されたのはフランス人ポール・ブリュナで、政府に提出した意見書が認められて契約に至りました。彼はいくつかの候補地を調査したのち富岡に決め、フランス製機械を日本人の体格に合わせて改良し、自国の女性技術者を招いて操業に備えました。
富岡に決めたのは、昔からこの一帯は養蚕が盛んで原料の繭(まゆ)を確保しやすいこと、工場用の広い土地を確保できること、既存の用水で製糸に必要な水を賄えること、付近で燃料用の石炭を採掘できること、などによります。
明治後期から昭和初期が生糸輸出の最盛期
製糸場の建設は1871年に始まり翌年に完成、やはりフランスのオーギュスト・バスティアンが設計を担当しました。建設資材は現地調達を原則とし、木材は妙義山麓などの官有林から、石材は甘楽町かんらまちの山から切り出し、レンガは甘楽町に窯を築いてフランス人の指導により埼玉県深谷の瓦職人が焼き上げました。
操業開始直後は工女が集まらず、繰糸器そうしきがフル稼働するようになったのは1年後ですが、その直後にウィーン万博で受賞するなど早くも成果を挙げました。しかし、収支面では不安を拭えず、1875年にブリュナらが去って以降日本人の経営になりましたが業績は低迷したままでした。そして1893年、政府の官営工場払下げにより三井家に譲渡され、さらにその9年後には原合名会社の所有となりました。
同社は養蚕農家を支援して良質な原料繭を育成し、繰糸器を増やして増産に努めました。同社が経営に携わった明治末から昭和初期にかけてが日本の生糸輸出の最盛期で、ここで得た外貨が国力の増強、近代化を促しました。
原合名会社撤退後の1938年に、富岡製糸所として独立しますが、その後片倉製糸紡績の傘下に入り、同社が1987年に操業を停止してのちは全建造物が富岡市に寄贈されました。
創業時には唯一の国産品、現存最古の鉄製貯水槽
敷地は5.4ha、そこに様々な建造物が創業時とほぼ変わらずに残っています。これらの建築的特徴は木骨レンガ造という構法で、木材で柱や梁などの基本的骨組みをつくり、柱間にレンガを積み上げて壁を構成しています。
メインの建物は繰糸所で東西に長く連なり140m余、南北12m余。この建物配置は当時照明がなく自然光に頼ったためで、レンガ壁の間にガラス窓を多用して光を入れていました。内部は中心ラインに柱がないため巨大空間が得られ、300台の繰糸器が置かれ、多いときには500人の工女が働いていました。これに次ぐ巨大建築は東西の置おき繭所(まゆじょ)で、いずれも南北104m余、東西12m余、風の通る2階に繭を置き合わせて約32tを保管できました。
フランス人たちの住居のうち、ブリュナ館と言われる首長館は、アメリカ植民地時代の瀟洒なコロニアル様式ながら屋根は瓦葺き、回廊風にバルコニーを巡らせ、レンガ造の地下室には食品やワインの貯蔵庫がありました。
その他、工場の動力を担った蒸気釜所、レンガ敷きの下水道施設が残り、鉄てつ水溜すいりゅうと言われる鉄製水槽は貯水量約400t、現存最古の国産鉄製構造物で、創業当初の貴重な遺構として2006年に重要文化財に指定されました。
日本の伝統的な絹文化を将来に継承する拠点
絹産業遺産群を構成する資産は3件。伊勢崎市の田島弥平旧宅は、近代養蚕農家の原型とされ、2階が蚕室で通風を重視し室内を涼しくして蚕を育てるために、屋根上には天窓付の長大な櫓を設けています。この飼育法は「清涼育せいりょういく」と言われ、その普及とともに弥平宅の建築様式が養蚕農家の間に広まりました。
藤岡市にあった養蚕教育機関「高山社」は高山長五郎の設立で「清涼育」と暖気で湿気を飛ばす「温暖育おんだんいく」双方の長所を取り入れた「清温育せいおんいく」を教授しました。教育のレベルは極めて高く、ここで学んだ生徒は地元に帰ってのち近在の教育に努めました。現在「高山社跡」に、その歴史を伝える建物が残ります。
下仁田町の山間部に残る荒船風穴は、高山社門下生が築いた天然の蚕さん種しゅ貯蔵施設で、夏でも2℃前後の冷気が吹き出す場所を石積みで囲い、その上を土蔵仕様の建造物で覆いました。風穴は3基あり、冷温保存して孵化の時期を調整し通年の養蚕を可能にしました。
絹の消費が減少傾向にある今日、絹産業は衰退に向かうばかりで、各地の関連遺産の消失も懸念されています。それだけに今後の富岡製糸場には、日本の伝統的な絹文化を継承する拠点としての役割が期待されるでしょう。