江戸という都市を背景に、さまざまな創意工夫に彩られた独自の文化が生まれました。この文化をカタチづくるモノや仕組みは、よりよい社会や生活を実現するために、計画・設計、つまりデザインされたものです。
衣食住から街づくりにまでおよぶこの江戸デザインを現代の私たちの視点で俯瞰し、より豊かな未来の暮らしへの示唆を得よう、というのが、江戸デザインについて考えることの目的です。

vol.01 陰陽道による「江戸」の都市デザイン、呪術的防衛線から泰平の世へ。

「日本橋日本橋真景并ニ魚市全図」広重東都名所 歌川広重画

「天下の総城下町」のデザインプロジェクト。

265年間におよぶ江戸時代の繁栄は、都市デザインから始まる。最初のデザイン・コンセプトは、「天下の総城下町」。慶長8(1603)年、征夷大将軍となった徳川家康による幕府開幕を期に、政治・軍事の都としての江戸建設プロジェクトが行われた。現在の日比谷公園あたりまで入り込んでいた浅瀬を、神田山(駿河台の古称)を掘削した土砂で埋め立て、新たな武家地・町方地を生み出したのだ。
江戸という地名、一説ではこの「日比谷入江の門戸(出入口)」という地形に由来するという。当時のこの一帯は、入江の背後に広がる浅瀬や湿地のぬかるんだ低地帯であった。

「増補江戸大絵図 絵入」表紙屋市良兵衛 国立国会図書館蔵

建設プロジェクトのキー・アイデアは「スパイラル形状の総構え」。

総構えとは、城を中心に城下の町全体を堀・石垣などで囲む城郭構造を意味する。江戸城を中心に、平仮名の「の」の字のように開削された掘割は、内堀から外堀と続き、平川(神田川の古称)を経て大川(隅田川の古称)に至る。防御のためだけでなく、建設物資を運搬する水路の役割をも担ったスパイラル形状の掘割。ユニークな形状ゆえに、武家地と寺社地、町方地が隣りあう江戸の町割がカタチづくられたのである。

江戸の都市構成。江戸城を中心にして、堀がひらがなの「の」の字のように右回りのスパイラル状に作られた。

ところでこの江戸の町割、現在でもその面影を残す街がある。それは日本を代表する繁華街・銀座である。銀座通りに面する店舗のいくつかは、間口の狭いノッポビルである。このカタチは地価が高いゆえかと思っていたが、実は江戸の町割の名残りであるという。

江戸鎮護構想による呪術的防衛都市デザイン。

実利的な建設プロジェクトが行われる一方で、天災や国の乱れから幕府を守る「江戸鎮護の構想」が立案された。当時は、政治と宗教が一体となった政祭一致が当たり前。古来からの「陰陽道」や「風水」は、都市デザインの依りどころであった。そして千年の都・京を参考に呪術的防衛ラインが構築された。江戸城の表鬼門の方角である上野に、比叡山を模して東叡山・寛永寺を創建。不忍池を琵琶湖になぞらえ、竹生島に見立てた池の小島に弁天堂を建てた。さらに上野の山一帯に、吉野山の桜をわざわざ取り寄せ植林したのだ。

広重東都名所「上野山王山・清水観音堂花見・不忍之池全図 中島弁財天社」一立斎広重 国立国会図書館蔵

大火を経て構築された「泰平の都」のデザイン。

1603年の開府から急増を続ける人口が限界に近づいた明暦3(1657)年、明暦の大火が起った。火災は江戸城内にもおよび本丸、二の丸、天守閣などを消失。3日間にわたって火の手が断続的に発生し、武家地、町方地など市中を焼き尽くした。その延焼面積は江戸市中の約60%におよび、死者は3万人とも10万人とも言われている。この大火を契機に軍事優先の都市デザインからの転換が求められた。新コンセプトは「泰平の都」のデザイン。長期政権を目指す幕府の首都としてのグランドデザインである。そしてキー・アイデアは「都市機能の拡大と都市基盤の整備」。
都市機能拡大のため、手始めに市中で大きな面積を占める寺社地を郊外へ移転、日本橋葦屋町(人形町付近)にあった幕府公認の吉原遊廓も浅草田圃(日本堤付近)に移した。移転により生じた土地は、武家地の再編や新たな町方地の整備を可能にした。
また防災上の観点から火除け地、広小路が各地に設けられた。犠牲者が多く出た大川には両国橋、永代橋などを架橋。本所・深川方面への幹線道路として、市街地拡大と火除け地として、機能させた。1868年の明治維新まで続く江戸の原型が、こうしてカタチづくられたのである。