九州北部、唐津市相知町にある「蕨野(わらびの)の棚田」は、八幡岳(764m)の中腹に位置し、手のひらを広げたように五つの沢沿いにひらかれている。棚田があるのは標高150〜420mの間で、「日本の棚田百選」「国の重要文化的景観」などに選定されている。

野性的な石垣は、南米の巨石文化遺跡に彷徨いこんだような錯覚に陥る。

棚田の畦道の法面には、土で作る「土坡」と、石を積み上げて作る「石積み」がある。大雑把にいうと、「土坡」は東日本に多く、「石積み」は西日本に多い。

ここ蕨野の棚田も、畦の法面は「野面積み」の石積みで築かれ、下から見上げるとまるで堂々とした山城の石垣のように見える。実際、お城の石垣を積む技術が用いられたと言われている。なるべく稲を植える面積を増やそうとした昔の人たちの熱意が伝わってくる。高い石垣を崩れないように積む技術はすばらしい。

棚田は36ha、700枚あり、「日本の棚田百選」の中でも規模の大きなものの一つで、その迫力には圧倒される。

ここは、民家が下に離れていることもあって、野性的な印象を与える石垣であり、農道を歩いていると、まるでどこか、南米あたりの巨石文化の遺跡に彷徨いこんだような錯覚に陥る。

棚田の石垣としては、日本一、二を争う高さ8.5mもの石垣があることでも知られ、上に立ってほぼ垂直の石垣を見下ろすと、足がすくむ思いがする。

この田んぼを耕作している農家の人が、石垣の途中で草取りをしていたが、まるでロッククライミングのように見えた。あるとき、石の隙間から突然蛇が出てきて驚いて、転落しそうになったこともあるという。命がけの農作業だ。

この石垣が造られたのは、昭和10年ころで、年号が刻まれた石が地下水路である暗渠(あんきょ)のそばに残っている。この暗渠を含め、蕨野の棚田には97カ所の暗渠が存在する。

ため池から水路を伝って水が流れ落ちるが、この暗渠をくぐって下の段の田んぼに水を通している。水利の技術にも目を見張るものがある。

9月のある日、蕨野棚田で稲刈りが行われた。

ここの棚田は一枚ごとの田んぼは比較的広いので、コンバインで稲を刈ることができる。コンバインは、たわわに実った稲穂の中をゆっくりと進んでいく。

稲刈りの仕事の合間に、蕨野では「浮立」と呼ぶ伝統芸能が披露された。

あでやかな衣装と菅笠をかぶった女性たちが、太鼓、笛、鉦(かね)のお囃子の中、大きな円を描いて踊りながらまわるというものだった。

もともとは戦国時代、敵と闘かって勝ったことをお祝いするために行われたことが始まりとも言われるが、現在は、田の神様に農作物が豊富に獲れますように、とお願いしたり、豊作に感謝するために行われているそうだ。

音楽を奏でる人たちの中でもひときわ目を引くのは、大きな鉦を力強くたたいている人たちの姿だ。これはインドネシア・バリ島のガムラン音楽を思い出させるものだった。

蕨野の人たちにとって、祭りはコメ作りと切り離せないものだ。

コメを与えてくれた自然に感謝する気持ちを忘れないこと、そして、祭をやることで、村の人たちの気持ちがいっしょになることも大切だ。

バリ島の人たちも、昼は農作業をして、夜は歌や踊りを楽しんでいる。神様に感謝するお祭もきちんと行っている。その生活は、この蕨野の人たちの生活に似ているようだ。

もともと稲作は、中国大陸や東南アジアから伝わったというが、米作りの技術だけではなくて、祭、食事、遊びなど、いろんな文化も同時に伝わった。だからアジアの人たちの文化と似ている点も多いのだろう。

現在、ここで獲れたコメを「棚田米 蕨野」として売り出している。

棚田は山からの飲料水にも使えるほどのきれいな水が流れてくる場所にあり、平地と比べると昼と夜の温度差が大きく、稲が熟していくときにゆっくりと時間がかかるので、棚田米はおいしいと言われる。

そして今は食べ物の安全性に気をつける人が多くなっているので、だれが作っているか分かる安全なコメだということもあって、ここの棚田米は人気になった。

棚田が注目される前、棚田を自分たちの代で荒らすのは忍びないとの思いがあったが、「先祖が苦労して造った石垣に対し、米が売れるようになって少し恩返しができた気がします」と棚田保存会の人は言った。品種は佐賀県特別栽培農産物認証を受けている「夢しずく」で、蕨野棚田直売所で購入できる。

なお、棚田を舞台にした都市住民との交流活動も盛んで、春は菜の花を植えて、ウォーキングのイベントを行っている。