人を食ったり、悪戯をしたり、特定の場所へ行くと不思議なできごとに遭遇したり。日本の「妖怪」は、様々な姿形と共に昔話の中で語り継がれてきた。そんな妖怪達が生まれる背景には、土地土地の環境や戒めがあるのではないか――。
独自の視点で妖怪の痕跡を追いかけ、文化との接点を研究する妖怪文化研究家、木下昌美さんと妖怪の古都を訪ねた。

妖怪は、日本文化を形成する一つの要因かもしれない

木下昌美さんは、奈良を中心に各地の妖怪の話を集めては「奈良妖怪新聞」に発表している研究家。そのユニークな活動はメディアでもしばしば取り上げられており、現在では旅行会社とコラボして、妖怪の伝説を辿るツアーも開催するほど。そう聞くと、てっきり「妖怪研究家」なのだと思ってしまうが、じつは「妖怪を通して日本の文化や風習を研究している」とのこと。

「その地域のことや物語について知ろうとすると、自ずと日本(人)の文化に触れなければならず、その中に妖怪がいると追いかけています。日本文化を形成する一つの要因がオバケであると言えるかもしれません」

基本的には本で調べてフィールドワークをしながらその土地や産業を見て、そこに伝わる物語に登場する妖怪の発祥を推測するのが木下さん流。

たとえば、「一本だたら」という妖怪は、「果ての二十日に山の中で遭遇すると襲われる」という言い伝えのある一本足の大きな化け物。地域によっては一つ目であるとも言われ、いかにも恐ろしい姿だ。

「“果ての二十日”とは、12月20日のこと。一本だたらの話が残る地域を訪ねたことがありますが、奈良や三重、和歌山県の山奥で、年末の頃にもなれば雪がすごいところです。その頃山に入ると危ないという戒めではないかと感じました。他にも、“たたら製鉄”と関連があるという噂があり、やはり土地の環境や産業との関係を感じます」

奈良は妖怪の宝庫!

古い都だけに、奈良にもさまざまな妖怪の伝説が残る。特に、仏教が入ってきた頃には鬼や天狗が仏教の威徳を知らしめるために創られたと思われる物語も多く、お寺には妖怪の足跡がちらほら。せっかくなので、ぜひ妖怪の伝承が残る場所を教えて欲しいとお願いして、案内してもらうことにした。

まず向かったのは「興福寺」。近鉄奈良駅から歩いてすぐというロケーションにありながら、広い境内は国宝や重要文化財の宝庫。その一角にある三重塔には、「オウテクレババ」の話が伝わっている。

興福寺で最も古い建物、三重塔。国宝なのだが、ぽつんと離れたところにあり、この日は観光客もいなかった。

「オウテクレババは、“負うてくれ”と言って背中に取り付いてくるおばあさんの妖怪。三重塔や北円堂付近にその話が残っていて、三重塔の周りを三度回って石を投げると、ギイーと扉が開いて中から出てくるという話もあります」

背負うと背後から噛みついてくることもあるそうで、できれば背負いたくない。しかも、どうしたら降りてくれるとか、背負ったあとはどうなるのかとかいったオチは残っていないらしく、意味不明な不気味さが残る。

続いて向かったのは「額塚」。興福寺の手水舎の後ろに、なぜか金網で囲まれた小さな丘と石の塚がある。

「昔、この辺りから水が湧き出して困ったことがあるそうです。当時、興福寺の南大門に“月輪山”と書かれた山号額が掲げられていましたが、とあるお坊さんに“月が水と縁があるためだ”というお告げがあり、額を下ろしたところ水が止まったと。その額を埋めた塚がここだと伝わっています」

これも不思議な話だが、実際に額塚という名前で塚が残っているということは、本当に額を供養したのかもしれない。妖怪というよりもこちらは怪異だが、その痕跡が今も残っているのは興味深い。

お坊さんでも由来を知らない人が多いという額塚。南円堂と五重塔の間にひっそりと立つ。

続いて、東大寺に移動。言わずと知れた、奈良の大仏が座す古刹だ。巨大な南大門を潜り、中門の先に大仏殿がある。だが、今回は中門の前で右に折れ、東廻廊の壁に沿って北へ。すると、涼しげな木陰が落ちる長い石段がある。

「ここは猫段と呼ばれていて、転ぶと猫になると言われています。」歩きながら、そんなエピソードが零れだす。

「実は、転ぶと猫になるという伝承は奈良県の各地にあります。特に、お墓で転ぶと猫になると言われている地域が多いようです」

大仏殿を目の前に見る石段。いつから猫段と呼ばれているのかもその由来と共に不明。

さらにその階段を登り切った先に、小さな神社があった。「辛国(からくに)神社」という名前で、鳥居の先に屋根の付いた小さな建物があり、その先に祠がある。

「昔、境内で悪さをする天狗がたくさんいたので、良弁僧正という偉いお坊さんが改心させて仏法護持を成約させたという言い伝えがあります。さらにこの社を作って、大法会の際には必ずこの社に向かって正法護持を祈ると、江戸時代の東大寺諸伽藍略録に書かれているそうです」

現在でも、大法要の執行の際には前日の夕刻にこの社の前で僉議文を読み上げ、境内を巡察しているとか。天狗が悪さをせず、きちんと仏法を守っているかを確認しているということか。少なくとも江戸時代から連綿とその風習が続いているというのは、ただの伝承ではないように感じる。

社の前の建物には葉団扇が描かれた大きな提灯と、信者一同の名が書かれた提灯が。この神社は、市内の阿字万字(あぜまめ)町の人々の間で崇敬されているそうだ。

最後は、新薬師寺へ移動した。聖武天皇の病気平癒を祈って創建されたという歴史あるお寺で、少し駅前から離れるが、その分静かで落ち着いている。本堂の中には薬師如来・十二神将(干支の守り仏)の像がずらりと並び、圧倒される雰囲気だ。だが、今回の用事は本堂ではなく、境内の片隅にある鐘楼らしい。

「ここの鐘には、鬼の爪痕が残っているんです」

住職の好意で普段は立ち入り禁止の鐘楼に入れて頂くことができ、さらに梯子をかけて鐘の近くまで近寄ってみることができた。鐘には確かに爪痕ともとれる引っかき傷のようなものが無数に走っている。

「奈良の有名な鬼に、ガゴゼというのがいます。元興寺の鐘楼に現れて人々を悩ませていたのを、当時お寺にいた小僧さんが懲らしめました。その時戦った傷が鐘に付いているという話です」

妖怪の伝承の中でも、痕跡が残っているのは貴重だ。真偽のほどは定かではないが、高いところに架かっていたはずの鐘に無数の引っかき傷ができるのは確かに不思議ではある。

銅の肌に走る無数の引っかき傷のような跡。果たして鬼の爪痕だろうか……?

その物語が生まれる時、何があったのか

妖怪の痕跡を訪ねるプチトリップを終えて思うのは、普通の昔話には結構オチがあるけれど、今回教えてもらった伝承にはオチがないということ。だからこそ余計に、誰かを楽しませるために作られた創作ではなく、当時の人々が暮らしや文化の中で生み出した「気配」のようなものを感じるのだ。その辺りを木下さんに聞いてみた。

「例えばオウテクレババは、子どもがあの辺りで騒がしく遊んだり、三重塔に石を投げたりしていたので、三度回って石を投げると怖いおばあさんが来るよと、脅した名残かもしれません。猫段も、お墓で転ぶのは昔から不吉と言われていますので、そこから派生している話かもしれませんね」

大した事件がなくとも、ほんの日常の延長に妖怪が生まれている可能性がある。それは日本独特の自然崇拝とも関係があるのかもしれない。

「おなじみの鬼については、中国から入ってきた妖怪で、昔の鬼は形が違います。元々は人が死んだら鬼になると言われていたそうで、日本では、鬼が姿形を持ち始めたのは絵として描かれるようになってからで、中世以降と考えられます。仏教が入ってきた頃に、仏教の力を広めるために鬼や天狗が使われた話も多いように思うので、関係があるのかもしれません」

辛国神社や新薬師寺の鐘のように、偉いお坊さんが天狗や鬼を懲らしめたという話はとても多いそうだ。鬼や天狗などの未知の妖怪も仏教の力にはかなわないという話が仏教を広める宣伝の一つになったのだろう、と木下さんは推察する。

こうして話を聞くと、日本人の暮らす環境や文化、宗教の中に妖怪たちは色々な姿で現れては、危険を知らせたり、仏様の加護を知らしめたりしている。恐ろしいものでありながら多くの人が妖怪に惹かれるのは、人の心が作り出したゆえの共感もあるのかも、と感じずにはいられない。

妖怪に姿を変えた文化や風習を追っていく

そうした物語を見つけたり人から聞いたりしては、実際に伝承の残る土地へ赴いて聞き取りをしたり地形を見たりする木下さん。そこで集めた物語は、毎月1妖怪ずつ、「奈良妖怪新聞」で発表されている。“この妖怪はこうした理由で生まれた”と、断定できることの方がもちろん少ない。だが、妖怪を切り口に、ぼんやりと浮かび上がってくる当時の暮らしや、日本人というものが何とも面白い。

奈良妖怪新聞は電子版で誰でも好きな号を購読可能。木下さんが案内する妖怪から紐解く日本文化を覗いてみてはどうだろうか。

奈良妖怪新聞。毎月第一月曜日に電子版でリリースされており、2019年9月現在では通算43号を迎えている。
木下さんが案内する妖怪ワールドに浸れる、「奈良妖怪新聞総集編」と「すごいぜ! 日本妖怪びっくり図鑑」