日本の暮らしを支えてきた、ものを作る人たち。師匠から弟子へ綿々と受け継がれてきたわざは、その人たちの手に宿っています。永い歴史の中で一つの時代を担う、職人の手わざが生み出す仕事と、彼らが背負う思いをお伝えします。
今回は、「江戸からかみ」の唐紙師、小泉幸雄さんです。
文 : 村田保子 Yasuko Murata / 写真 : 菅原孝司 Koji Sugawara
Keyword : 江戸からかみ / 浜離宮恩賜庭園の松の御茶屋 / 唐紙師 / 出島のオランダ商館
数値化や方程式を駆使して、息子たちに技術を伝える。
ふすまなどに張られる江戸からかみには、草花など自然をモチーフにした柄、粋な縞や格子柄、銀白色に光る雲母(きら)摺りなど、数々の華やかな文様があります。代表的な技法は、文様を彫刻した版木に、胡粉(ごふん・貝殻の粉末)や雲母(きら・白雲母〈しろうんも〉の粉末)などの絵の具を付け、手摺りで和紙に写し取っていくというもの。この仕事を担う唐紙師の1人が小泉幸雄さんです。
江戸の名工といわれた小泉七五郎の孫である源次郎が、明治に創業した「唐源」を引き継ぎ、七五郎から数えて五代目となります。
「親父は人に教えず、全部自分でやる人だったから、仕事は見よう見まねで覚えました。親父が80代半ばで引退して、本格的に私が引き継いだ後も、作業場に座ってずっと私の仕事を見ていましたね」
小泉さんの父親である四代目の哲(てつ)さんは、亡くなる直前に「お前は細かいものを出すのが俺より上手い。こういう仕事をすると一生お金が貯まらないよ」という言葉を残しました。職人の手を抜かない仕事を讃える最高の褒め言葉です。
小泉さんはその後、浜離宮恩賜庭園の松の御茶屋のふすまや壁の復元、長崎の出島のオランダ商館などの復元も担当。江戸時代の版木を使って歴史的な建造物を甦らせました。
「江戸からかみは明治以降、紙に合わせて版木のサイズが大きくなるのですが、江戸時代の版木は小さいので、1枚1枚色を揃えるのが難しいんです。浜離宮などの仕事は、伝統的な技術を磨く、ありがたい機会だと考えています」
現在は息子の雅行さん、哲推さんも後継者として、「唐源」で仕事をしています。浜離宮や出島の仕事もともに経験しました。小泉さんは先代と同じやり方ではなく、ときにはアドバイスも与えます。
「絵の具を溶く水の量は、刷毛(はけ)から滴る濃度で見極めますが、地色を引く、具引(ぐび)きという作業をするときは、量が多くなるため、水の重さを計測して記録を付け、誰でも一定のものが作れるようにしています」
3尺×6尺の大判の紙を使う江戸からかみは、版木を繰り返し送って摺りますが、このときも自ら編み出した方程式を使い、計測して文様がずれないようにしています。効率的に技術の精度を上げ、息子たちが仕事をしやすいように、たくさんの工夫や改良を積み重ねているのです。
職人と版元が協力し、途絶えかけた伝統を再興。
江戸からかみは、漢字で「唐紙」と書かれるとおり、もとは中国の北宋時代に唐の国から平安京へ渡来し、和歌をしたためる料紙(りょうし)として使われました。やがてふすまなどの室内装飾にも用いられるようになり、京都から江戸へ。そして、町人文化に支えられ、独自に発展したのです。
しかし、関東大震災や戦争で版木のほとんどが焼失し、一時は伝統も途絶えかけました。それを再興させたのが、小泉さんの父の哲さんと、江戸からかみの版元(江戸からかみの総発売元)である和紙問屋「東京松屋」です。職人と版元が協力し、協同組合を作り、残っていた見本帳から版木を再生したり、調査や研究を重ね、江戸からかみを現代に甦らせました。最近では商業空間や住宅の壁に、江戸からかみを張るというニーズも増え、その活動が実を結び始めています。