風土記や記紀神話に記された神の地を巡ると、陽光の輝きや清涼な水の流れや木霊する木や苔むす岩など、原生の自然の中に存在する万物に、私たちの祖先は神の依代(よりしろ)を見出してきたことを知る。それを核として神殿が築かれ、神域が整えられていったと思えてくる。
神社には、神話から続く歴史と伝統に基づいた風景が脈々と受け継がれている。その風を肌に受けつつ神々の杜を訪ねると、神が鎮座する無限空間からは、歴史と日本文化が香り立つようだ。(石橋睦美)

武勇の神を祀るに相応しい神々しさを醸し出す

鹿島灘を間近にする低い丘陵に、武勇の神と称えられる武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)は日本書紀による。古事記では建御雷神(たけみかづちのかみ)を祀る鹿島神宮がある。天照大神の命を受けて高天原から天下り、香取神宮に祀られる経津主神(ふつぬしのかみ)とともに、大国主神に国譲りを迫った神である。日本書紀に記される神話では国譲りを終えたのち、鹿島の地に武甕槌大神は鎮座して蝦夷を睨み、利根川を挟んだ香取の地に経津主神は鎮座して東国を鎮撫したと伝えられる。

仮殿

北浦に架かる神宮橋を渡ると、鹿島神宮の杜は近い。私は若い頃、よく鹿島神宮を訪れていたから、懐かしさがこみ上げてくるのを覚えた。ただ、神宮の風景の記憶はほとんど消え去っていた。本殿を過ぎて一直線の参道を辿り、奥宮へ至る。その社を右に見て左に曲がり、坂を降ったところに御手洗池がある。ここだけは微かに覚えている。心に焼き付けられるほどに美しい風景として、当初記憶されたのだろう。ただ昔の御手洗池は、もっと素朴だったように思う。いまでは池に建つ鳥居は石造りだが、私の記憶では木造であった気がする。とは言え、三十数年も前のことだから勘違いかもしれない。

御手洗池

このように脳裏に残る風景というのは実に曖昧ではあるが、御手洗池に語り継がれる伝承は歳月を重ねても変わることはない。池に浸ると背丈が異なる人間でも、水面の位置が乳から上に行くことはないという。そんな言い伝えを残す御手洗池の泉の水は透き通り、こんこんと湧き出でて樹相を映し、心を清涼へと誘ってくれる。

本殿

鹿島神宮の本殿は楼門を潜ったすぐの所にある。そこから奥宮への参道は幅広く、白砂が敷き詰められていて、周囲は原生の自然林が繁茂している。その森を満たす冷気は参道に微かな空気の流れを運び、武勇の神を祀るに相応しい神々しさを醸し出すのである。

「神々の杜」を取材し始めたのはもうだいぶ以前になる。何度目だったかのある日に体感したことは忘れがたい。雪の神域を撮影したくて出かけたのだが、鹿島神宮あたりはあいにく雪にはならず、冷たい雨が降っていた。神域に人影はなく、参道を囲む原生林は濡れて、重厚な佇まいの中に沈んでいた。

楼門より望む境内<

奥宮へ詣でてから、左折して御手洗池へ降る坂道にさしかかる。何度も歩いた坂道だから見慣れていた景色なのに、途中で森の中に出来た薄茶色の地肌をむき出しにする小さな崖にふと視線がいった。今まで気付かなかったのに、なぜ、その時に限って眼に止まったのかわからない。その崖と同じような風景が、子供時代に遊んだ故郷の小さな森にもあったのを思い出したのである。たわいもないことなのだが雨の坂道で出会った風景から、懐かしい故郷の情景が蘇ってきたのである。

参道

太古、関東平野一帯がまだ人間の気配が薄い時代、椎の木や樫の木が茂る森が平野全域を覆っていたことだろう。その森は、ここ鹿島から私の育った故郷にまで続いていたはずである。森が途切れるのは河の流れが形成した、氾濫原にできた霞ヶ浦や北浦などの湿地帯だけだったろう。そこは葦が繁茂していて、流域沿いに海まで続いていた。遥か昔、人々の交流は、その水路を利用することで成り立っていたと思われる。丸木船で行き来したのではなかったか。霞ヶ浦の水辺から筑波嶺を望む時、そんな原始風景を空想させてくれるのである。

霞ヶ浦より望む筑波山

写真・文: 石橋睦美 Mutsumi Ishibashi

1970年代から東北の自然に魅せられて、日本独特の色彩豊かな自然美を表現することをライフワークとする。1980年代後半からブナ林にテーマを絞り、北限から南限まで撮影取材。その後、今ある日本の自然林を記録する目的で全国の森を巡る旅を続けている。主な写真集に『日本の森』(新潮社)、『ブナ林からの贈り物』(世界文化社)、『森林美』『森林日本』(平凡社)など多数。