風土記や記紀神話に記された神の地を巡ると、陽光の輝きや清涼な水の流れや木霊する木や苔むす岩など、原生の自然の中に存在する万物に、私たちの祖先は神の依代(よりしろ)を見出してきたことを知る。それを核として神殿が築かれ、神域が整えられていったと思えてくる。
神社には、神話から続く歴史と伝統に基づいた風景が脈々と受け継がれている。その風を肌に受けつつ神々の杜を訪ねると、神が鎮座する無限空間からは、歴史と日本文化が香り立つようだ。(石橋睦美)

奥宮

香取神宮の祭神経津主神(ふつぬしのかみ)は、日本書紀では鹿島神宮の祭神武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)とともに高天原から天下り、国譲りを成し遂げた神として登場する。ただ何故か古事記には、経津主神の名は見られない。

それはともかく、経津主神は武神として古来より崇拝されてきた。その経津主神を祀る社は、利根川を間近にする亀甲山(かめがせやま)にある。太古、霞ヶ浦から北浦、さらには印旗沼や手賀沼一帯にかけて、香取海と呼ぶ内海が広がっていて、海を見下ろす台地に経津主神と武甕槌大神が鎮座した。そこがヤマト政権とっての東国の先端基地として、重要な役割を担う場であったからだ。

拝殿に座す神輿

いま鹿島・香取の両神宮を訪ねると、共通する雰囲気を感じ取ることができる。ともに杉や樅などの巨樹が茂る原生林に包まれて、武神を祀るに相応しい重厚さを醸し出しているのである。

香取神宮の取材をしたのは十二年に一度、午の年におこなわれる式年神幸祭の時であった。神輿を担ぎ長い行列をなして香取神宮を発し、利根川の畔りにある津宮へ向かう。ここで神輿を乗せた御座船は上流へと漕ぎ出してゆく。しばらくすると鹿島神宮からの御迎船がやって来て利根川の水上で出会い、催行した後分かれ、再び津宮へ戻り御旅所で神輿は一泊する。

拝殿に座す神輿

翌日、佐原市街を巡って香取神宮へ戻ってゆく。その壮麗さは経津主神が東国を平定した折の戦列を模したとされ、神話の時代に誘ってくれる光景である。

香取神宮へは以前一度参詣したが、式年神幸祭の取材の折りは許可を得ての撮影だったから、じっくり香取神宮の佇まいに触れることができた。神官による祭事の様は勿論のこと、巫女舞や延々と続く行列、そして何より素晴らしいのは利根川に漕ぎ出して行われる催事のスケール観であった。

佐原小野川畔をゆく神幸祭の神輿

私は式年神幸祭が始まる1日前に香取神宮に入り、撮影場所のロケハンを行なった。その時に気付いたのだが、香取神宮の奥行きの深さに驚かされたのである。以前来た時は本殿の周辺にしか視野が広がらなかったが、参道から脇道に外れてゆくと、香取神宮の伝説や歴史観を垣間見ることができる。

一つに要石があげられる。要石は鹿島神宮にもあるのだが、香取神宮の要石のそばに由来が記されている。常陸から下総にかけての一帯は遥か昔からたびたび大地震が起きて、甚大な被害を被ってきた。大地震は地中に棲む大鯰が暴れるからだと信じられ、武甕槌大神と経津主神は石の串棒を地中深く差し込み、大鯰の頭から尾にかけて刺し貫いたとされる。その元端と先端が両神宮にある要石だという。

楼門前に咲く山桜

この伝承から想像を広げてゆくと、大鯰とはヤマト政権に反抗する東国の地神や蝦夷ではなかっただろうか。それらの勢力を制圧したのが武甕槌大神と経津主神だった。このようにして要石の由来に空想を広げると、神話に潜む真相がおぼろげに形を成してくるように思う。

神が降臨した場を示す立砂

もう一つ境内で目を止めたのは、奥宮の手前にある剣聖飯篠長威斎の墓である。彼は最古の剣法とされる天真正伝神道流の祖とされ、香取神宮境内の梅木山不断所で剣の奥義を極めたと伝えられる。何故、飯篠長威斎に興味を持ったかというと、長威斎より時代は降るが武神を祀る鹿島神宮にも剣聖と呼ぶ人物がいた。天真正伝神道流の流れを汲む、鹿島神道流を起こした生涯無敗を誇る剣聖塚原卜伝である。

図らずも神話の時代に活躍した二柱の武神に照らし合うかのように、不世出の二人の剣聖がいた。その歴史の現実を知ると、神話時代から営々と続いて来た神の地には、やはり武の風土が息づいていると思えてくる。

神宮境内付近

香取神社

千葉県香取市香取1697-1
TEL : 0478-57-3211
https://katori-jingu.or.jp

写真・文: 石橋睦美 Mutsumi Ishibashi

1970年代から東北の自然に魅せられて、日本独特の色彩豊かな自然美を表現することをライフワークとする。1980年代後半からブナ林にテーマを絞り、北限から南限まで撮影取材。その後、今ある日本の自然林を記録する目的で全国の森を巡る旅を続けている。主な写真集に『日本の森』(新潮社)、『ブナ林からの贈り物』(世界文化社)、『森林美』『森林日本』(平凡社)など多数。