古代信仰を背景とし人々の暮らしに密着した鎮守の森。森の写真家、石橋睦美が人々の暮らしと密着した鎮守の森を歩きます。今回は熊野古道にある熊野継桜王子(くまのつぎざくらおうじ)です。

自然への畏怖と敬意から村々に作られた社を囲む

継桜王子の入口に建つ鳥居、石段が神を祀る社へ導く。

鎮守の森といえば、村祭りがおこなわれる神社に茂る森、というイメージがあります。そこは多くの人にとって幼いころの遊び場であり、郷愁を誘う風景ではないでしょうか。私の育った千葉県は照葉樹林域でシイやカシの樹が茂る森があり、そこで木登りをして木の実をとったり、蝉を捕まえたり、魚を釣ったりしました。大人も子どもも心が解放されるところだったと思えるのです。

そんな鎮守の森ですが、本来は村落を守る氏神や産土神を祀る神域でした。生活を支える上で、自然からの恵みをいただいて暮らしてきた私たち日本人は、生きるためとはいえ、自然を犯したことによる祟りを恐れ、村に鎮守神を祀り崇めてきたのです。

継桜王子の入口に立つ一方杉、その林間を照葉樹が埋める。

鎮守の森に茂る樹を思い出すとき、生まれ育った土地によって人それぞれに異なると思いますが、私の場合はやはり照葉樹で、そんな記憶からか、照葉樹が茂る熊野を訪ねると心が安らぐのです。

熊野古道の大辺路や中辺路などには、九十九の王子社(※)があります。平安時代、上皇や貴族による熊野詣でが盛んでした。その旅路で祈りを捧げ、休息をとったところが王子社なのです。それらの王子の中で、昔に想いを馳せる風景が残るのが野中清水湧く継桜王子です。

(※)王子社=熊野の神様の御子神(みこがみ)が祀られているところ。

継桜王子のすぐ下に野中清水が湧く。参詣者の乾きを癒す湧水だ。

博物学者・南方熊楠らの反対運動で鎮守の森が守られた

明治39年に一村に一社のみとする神社合祀令が発布され、博物学者・南方熊楠は熊野の植生が失われると憂え、反対運動を起こしました。

結果、田辺湾に浮ぶ神島を始め、幾つかの鎮守の森を残すことができました。そのひとつが継桜王子です。名称は藤原秀衡が熊野詣でをした折りの伝説に由来します。その境内には、樹齢800年を越す野中一方杉と呼ぶ老杉が何本も立っていて、枝を熊野那智大社の方角にだけ延ばしています。それで一方杉と名付けられました。しかし杉は陽のあたる谷側へ枝を伸ばしますから、たまたま方角が熊野那智大社だったのでしょう。杉の巨木が目立つ継桜王子ですが、林間を埋めるようにカゴノキやヤブツバキ・ウラジロカシなどが生えています。これらの照葉樹が茂っていることで、遠い昔の熊野の森林相がうかがい知れるのです。

落葉散り敷かれる社への参道、平安時代から歩かれた古道だ。

継桜王子から車で1時間ほど走ると、熊野本宮大社です。熊野川そのものを神と崇める神社で、以前は熊野川・音無川・岩田川が合流する中州にありました。しかし明治22年に起きた水害で流失してしまいました。上流の森林伐採によるのかもしれません。旧社地大斎原は、自然破壊を怒る産土神が起こした警告だったとも思えてくるのです。

濡れて黒光りする一方杉の樹幹、世の変遷を見つめてきた。

熊野継桜王子

所在地域:和歌山県田辺市と周辺地域
問合わせ:熊野本宮観光協会
     ☎0735・42・0735
     http://www.hongu.jp
アクセス:阪和自動車道、南紀田辺ICより熊野本宮大社まで約1時間35分