東北から沖縄までの8県に伝承されているナマハゲなど10件の行事が、「来訪神:仮面・仮装の神々」として、2018年11月、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。
来訪神とは、人々の前に異様な風体で現れて災厄を祓い豊穣をもたらすとされる神々で、このような信仰は世界各地に見られます。
これら日本の10件は、いずれも古来の民間信仰や神観念を今に伝える行事で、奇習、奇祭として知られています。

1 男鹿(おが)のナマハゲ(秋田県男鹿市)

鬼に扮した未婚の青年たちが家に押しかけて子供たちを威嚇する有名な行事。

深々と降る雪に閉ざされる大晦日の晩、鬼の面をかぶり、海藻で編んだ蓑を着込み足もとは藁沓(わらぐつ)、張り子の包丁や棒を手にした一行が猛々しく里に繰り出します。鬼に扮するのは未婚の青年で、ふつう5~6人単位で徒党を組み「ウォー、ウォー」と奇声蛮声を張り上げながら家々に上がり込みます。そして「今年は豊作、万作、大漁」などと告げ、ドタドタ足を踏み鳴らして「親の言うこと聞かね餓鬼ぁいねが!」「惰弱(だじゃぐ)な童衆(わらし)ゃいねが!」などと喚き立てながら座敷中を探ります。威嚇のターゲットは子供たちや嫁いできたばかりの女性などその家の新しい構成員ですが、とりわけ幼い子供にとっては恐怖以外の何ものでもありません。戸主は代々伝わる作法で丁重にもてなし、酒肴や餅を振る舞います。

この奇習について、一説では漢の武帝が男鹿半島に来たとき、連れてきた5匹の鬼どもをさんざんこき使っていましたが、正月中の1日に限り乱暴狼藉を許したことに始まるとか。語源についても諸説ありますが、寒い冬の間怠けて火の側にばかりいると脛にできる火斑を「ナモミ」と言い、それを剥ぎ取る「生身剥(なまみはぎ)に由来するとするのが一般的です。

(写真:森井禎紹)

2 吉浜のスネカ(岩手県大船渡市)

スネカとは得体の知れないものの意味。同時に五穀豊穣を告げる使者とも言われる。

年開けていちだんと寒さが募る正月15日の夜、人とも怪獣とも言えない奇怪な形相の面をつけ、上半身を藁蓑や毛皮、その上には沓のついた俵を背負い足には雪沓、アワビの殻をいくつも束ねて腰にぶら下げて、切刃(きりは)という小刀を手にしたスネカたちが家々を回ります。背の俵は豊作、アワビは豊漁を表し、俵の沓は泣く子をさらった証しとされています。

当日、スネカたちはアワビの殻を鳴らし、戸口では獣のような雄叫びをあげながら荒々しく戸を叩いたりして室内に入ります。そして来訪を待って座敷に集まる家族に「怠け者や泣く子、言うことをきかない子はいないか」などと声を張り上げ、怯える子供たちを威嚇して追い回します。これに対し、家人は餅や菓子を差し出して彼らの退散を願います。

スネカは奇怪なもの得体の知れないものとされる一方、春を告げ五穀豊饒や豊漁をもたらす使者と信じられ、その語源は怠けて火の側から離れない者にできる脛の火斑を剥がすことを言う「脛皮(すねかわ)たぐり」に由来すると考えられています。なお行事でかぶる面は原則各自で製作しますのでその表情はさまざま、それぞれ趣向を凝らして祭りを盛り上げます。

(写真提供:大船渡市教育委員会)

3 米川の水かぶり(宮城県登米市)

藁で作った水かぶり装束の者達が家々を回る。装束の藁は、家のお守りとなる。

毎年2月初午に行われる火伏せ行事で、早朝、男たちが代々この行事を伝えてきた水かぶり宿に集まって来ます。そして裸体になって肩と腰に注連縄を巻き、各自が工夫を凝らしてつくった「あたま」と呼ばれる藁の装束を頭からかぶり、足には草鞋を履き、顔に火の神の印とされる竈の煤を塗りたくります。

水かぶり装束になって来訪神に化身した男たちは、まず大慈寺境内の秋葉神社に火伏せ祈願してから家々を回ります。各家の前では手桶の水が用意されていて、男たちはそれを屋根にかけ、人々は男たちから藁を抜き取って屋根に上げてお守りとします。この一行とは別に、火の神の仮の姿とされる墨染僧衣の火男(ひょっとこ)と天秤棒に手桶を担いだおかめが、鐘を鳴らしながら家々を回り御祝儀を集めます。彼らも福をもたらす来訪神とされています。

水かぶりの起源については定かではありませんが、一説では12世紀後半の大慈寺開創時に僧たちの修行として始まり、以後連綿と受け継がれて今日に至っているとされます。水かぶり役を勤められるのは米川の五日町地区の男子に限られ、還暦や厄年の人が梵天を掲げて一行の先陣を切り、厄払いも兼ねます。

(写真提供:登米市観光物産協会)

4 遊佐のアマハゲ(山形県遊佐町)

ケンダンをまとった男子が家に押し掛け、餅を護符としてやりとりする小正月の行事。

滝ノ浦、女鹿(めが)、鳥崎の三つの集落に伝わるアマハゲは男鹿のナマハゲに似た行事で、それぞれ正月の1、3、6日の夜に行われます。いずれも鬼や翁などをかたどった専用の面をかぶり、藁を幾重にも重ねて厚く編み上げた「ケンダン」と呼ばれる蓑をまとい、履物は黒足袋に藁沓か下駄、夕刻に地元の神社に参拝してからいよいよ町内に繰り出します。

たちを威嚇します。その後太鼓の合図でアマハゲが静まると、嫁が酒の接待をして餅を2個渡します。アマハゲは1個だけ受け取り、もう1個は護符として家に残します。鳥崎では家の前で太鼓打ちや鈴振りが楽器を打ち鳴らしアマハゲが年頭の祝辞を述べると、酒食と餅2個が出されます。最初の家では女鹿同様1個は残し、2軒目以降では2個とも受け取り、代わりに前の家でもらった1個を置いてきます。

アマハゲのナマハゲと違うところは包丁や棒を手にしない、餅が護符としてやりとりされることなどで、三集落ではケンダンの藁屑が神聖視され、神棚に供えられたりします。

(写真提供:遊佐町教育委員会)

5 能登のアマメハギ(石川県輪島市、能登町)

鬼の面をまとった男女が家に押しかけてアマメをつくるような怠け者を威嚇する。

かつては能登地方全域で行われていましたが、今では輪島市の一部地域と能登町くらいになりました。この地方では、いつまでも火の側にいるとできる火斑を「アマメ」と言って怠け者の証拠とされます。これを剥ぎ取るのが妖怪のアマメハギとされ、祭りでは男子ばかりでなく若い女の子もこの役を担います。地区により行事にあたっての所作など細部に相違が見られますが、どこでも訪問先では威厳を保って臨むことが求められています。

輪島市では正月6日、14日、20日の夜行われます。各家に着くと座敷に上がり込んでまず神棚に一礼し、それから紙製の包丁や鎌を振り回して威嚇にかかります。女の子のアマメハギの中にはおとなしい口調の子もいますが、それでも幼児は異様な面を恐れて大泣きしてしまいます。能登町では2月3日夜、子供たちが手づくりの鬼の面に蓑をまとって深沓を履き、やはり紙製の包丁で竹筒を叩きながら行進します。途中、何度も「アマメ!」と叫んで怠け者を外に出て働くよう追い立てます。各家では玄関で彼らを迎え菓子や小銭を渡して労います。ここでは節分の夜に行いますので、豆撒きと兼ねる家庭もあります。

アマメハギの名称のほかに、地元では「面様」とも呼ばれています。由来は、農閑期の終わりに役人が農民たちの休み惚けを覚まそうと、鬼のような形相で家々を回ったことによるとか。人々は無事この行事が終わると、能登にも遅い春がやって来ると安堵します。

(写真:森井禎治)

6 見島のカセドリ(佐賀県佐賀市)

カセドリの衣裳をまとった者達が、青竹で家の床や畳を激しく打ち鳴らし悪霊を追い払う。

市東部の見島地区で毎年2月第2土曜日に行われる家内安全、五穀豊饒を祈る行事です。カセドリとは神の使いとされる雌雄の鳥のことで、「加勢鳥」と表記されます。これに扮するのは地区内から選ばれた青年2人で、目鼻と口は出して頭部を白手拭で覆い、藁蓑を着、手甲脚絆に白足袋を履き、下半分を細かく縦割りにした2mほどの青竹を手にします。

これに夜道を先導する提灯持ち、天狗面を持つ天狗持ち、大福帳を入れた籠を担ぐ籠担いが従います。当日は熊野権現社に参拝し所定の儀式を済ませてから行列を組み、青竹を引きずりながら無言で家々を回ります。訪問先に着いたら提灯持ちが主人に到着を知らせ、家族全員が揃い用意が整うと、カセドリが雄、雌の順で勢いよく室内に走り込み、青竹で激しく床や畳を打ち鳴らして悪霊を追い払います。迎える側では頃合を見て酒や茶を出して供応します。最近では簡略化されて、上がり框で終わらせることも多くなっています。

カセドリの起源は17世紀半ば、疫病の流行に悩んで紀州の熊野権現を招いて鎮守としたところ治まったので、いっそうの加護に与かろうと願って始められたと言われています。

(写真提供:佐賀市教育委員会)

7 甑島(こしきじま)のトシドン(鹿児島県薩摩川内市)

年神の意味を持つトシドンの異様な衣裳をまとった者達が家に行き、子供たちを祝福する。

12月31日夜、異様な風体をしたトシドンが子供たちを祝福する行事で、かつては甑島列島全域で行われていましたが、現在では下甑島のみになっています。トシドンとは年神のことで、天空、あるいは高い山や岩の上から首のない馬に乗ってやって来るとされます。

装束はシュロの皮やソテツの葉でつくった蓑や黒マント、大きな赤や青の面から30㎝ほどもある棒状の鼻を突き出し、口は耳まで裂け、今にも掴み掛からんばかりの形相で3~8歳の子供のいる家の前に立ちます。そこで馬の足が停まる音をさせてから、大声で「おるか、おるか、戸を開けよ」と叫ぶと、子供たちは恐る恐る戸を開けて迎え入れます。トシドンは子供たちの良いところを褒め、励まし、短所を指摘します。子供たちが良い子になることを約束すると、四つん這いにさせその背中に大きなトシドン餅を乗せて去ります。

その起源は不明ですが、明治以前から子弟教育の一環、あるいは農耕儀礼として行われ、トシドン餅は米が貴重な頃、親たちが子供の健やかな成長を願って始まったと考えられています。島ではトシドンが去ると、無事新年を迎えることができると信じられています。

(写真提供:鹿児島県教育庁文化財課)

8 薩摩硫黄島のメンドン(鹿児島県三島村)

竹籠を改良したメンドンの衣裳を着た者達が、家にいる人々を木の枝で叩き回って悪霊を払う。

メンドンとは旧暦8月1、2日、熊野神社に奉納される八朔太鼓踊りに登場する仮面神で、木の枝で人々を叩き回って悪霊払いをします。そこで使われるメンは竹籠を改良したかぶり物で、14歳の子供たちがつくります。逆さにした竹籠に紙を張り重ね、目鼻や渦巻き模様に描いた耳や眉を張り付け、鬼らしく角を1本つけて形相すさまじく仕上げます。

扮するのは25~34歳の踊りに参加しない男たちで、蓑を着け手袋をして誰だかわからないように振る舞います。当日は拝殿脇に控え、まず1人が飛び出して踊りの周囲を3周すると、次々と他のメンドンが出てきて見物客に悪戯を仕掛けます。メンドンは天下御免とされ、逆らったり誰が扮しているのか詮索することも許されません。子供のメンドンもいて、こちらは紙製のメンでササやシバを手に人々を追い回します。最終日の夕暮にはメンドンを先頭に集落を巡り、島中の悪霊を集めて海に追い払う「叩き出し」で終わります。

この由来は不明ですが、一説では豊臣秀吉の朝鮮出兵時、従軍した当地の3人が恩賞に与かり、その祝いとして踊りが奉納されメンドンも行われるようになったと伝えられます。

(写真提供:鹿児島県教育庁文化財課)

9 悪石島(あくせきじま)のボゼ(鹿児島県十島村)

異様な面を付けた者達が、ボゼマラと言われる長い棒を振り回し、家の悪霊を追い払う

旧暦7月16日の盆の終わりの行事で、ボゼとは容姿怪異で得体の知れない仮面神を言い、赤土や墨を塗りたくった異様な面をかぶり、ビロウの葉で編んだ腰蓑を着けシュロの皮を手首や足に巻き付けて、「ボゼマラ」と言われる長い棒を振り回します。この棒の先に塗られた赤土を付けられると悪霊が追い払われ、女性は子宝に恵まれると信じられています。

ボゼに扮するのは島の若者3人で、当日午後、ここでは聖地とされる墓地脇に待機し、古老の呼出しと太鼓の合図で広場に飛び出して盆踊りに興じる婦女子を追い回します。しばらくして太鼓が鳴るとボゼたちは踊り出し、次の太鼓で再び子供たちを追い回してから墓地脇に引き上げます。その後、面を跡形もなく壊して役割を終えます。一方、悪霊を払われてすっかり安心した人々は、公民館に集まって酒や料理を楽しみながら過ごします。

この祭りについてある研究者は、ボゼの出現は死者の霊が徘徊する盆行事に幕を引くことで、人々を新たな生の世界へ導く意義があると指摘します。またここでは、盆の期間には祖先の霊ばかりでなく、悪霊もともにやって来ると考えられていたことが伺われます。

(写真提供:鹿児島県教育庁文化財課)

10 宮古島のパーントゥ(沖縄県宮古島市)

パーントゥとは妖怪や鬼のこと、人々に泥を塗り付けて災厄を払い福をもたらす。

現在行われているのは島内二つの地区で、対照的な形態で継承されています。パーントゥとは妖怪や鬼のことで、人々に泥を塗り付けて災厄を払い福をもたらす働きをします。

島尻地区では旧暦9月吉日の2日間、3人の青年が面をかぶり全身に蔓草をまとい、泥まみれになってこれに扮します。泥はただの泥ではなく、強烈な異臭を放ち一度ついた臭いは数日消えません。当日は地区の拝所で巫女に祈願してから集落に繰り出し、誰彼構わず泥を塗りまくり、新築家屋や車までもたちまち泥まみれにしてしまいます。この行事は、一人の男が来訪神として崇められていた面をかぶって集落内を駆け回ったことが始まりとか。近年では汚された観光客の苦情などもあって、今後の進め方が課題になっています。

野原(ぬばる)地区では旧暦12月最後の丑の日で、原則として集落の女性と小学校高学年の男子で行い、こちらは泥塗りはしません。夕刻5時半頃、パーントゥの面をつけた1人の少年を先頭に、ホラ貝を鳴らし太鼓を叩き、後に続く女性たちはセンニンソウなどで編んだ草冠をかぶり腰には草帯、両手に悪霊払いのヤブニッケイの枝を持ち、「ホーイ、ホーイ」と唱えながら行進します。途中交差点では円陣を組んで「ウルウルウル」と叫んで厄除けを行い、集落の外れに到着すると草冠や草帯を外し踊りをしておだやかに祭りを終えます。

(写真提供:宮古島市教育委員会)