神の使い・眷属(けんぞく)として、日本各地で今もなお崇め奉られる「狼信仰」を辿る。
写真・文 : 青柳健二 Kenji Aoyagi
全国に狼信仰はみられるが、東北地方も狼信仰が濃厚に残っている地域のひとつだ。これから複数回にわたって、東北地方の狼信仰について紹介していこうと思う。
当時の人たちは狼をどのように捉えていたのか。
江戸時代後期の旅行家・地理学者だった古川古松軒は『東遊雑記』を著したが、その中に、狼についての記述がある。幕府巡見使の随員に採用された古川は、江戸時代の天明八年(1788)に仙台領の狼河原(おいのかわら 現登米市米川)を通った。
『東遊雑記』では「この辺は鹿出で田畑をあらすゆえに、狼のいるを幸いとせるゆえか、上方・中国筋のごとくには狼をおそれず。夜中狼に合う時には、狼どの、油断なく鹿を追うて下されと、いんぎんに挨拶して通ることなりと、土人物語せしもおかし」と紹介している。
狼がどんな存在だったかが垣間見える。狼が猪・鹿を追い払ってくれる益獣としての認識だ。これは本州中部での狼の捉え方と同じである。
一方で、もちろん狼に襲われる話もたくさんある。とくに東北は馬産地でもあったので、狼の被害にたびたび遭っていた。
菱川晶子著『狼の民俗学』によれば、古くから南部駒で有名だった盛岡藩の狼被害は、『盛岡藩雑書』によって知ることができる。正保元年(1644)から天保11年(1840)まで、狼による馬の被害のほかに、まれに子供が襲われたという記録や、また、狼狩りや狼討ちに対する報奨金の記録もある。それだけ、馬産地にとって、狼はやっかいな動物であったことも確かだろう。
ニホンオオカミの絶滅
狼は、北海道のエゾオオカミが絶滅した後、本州以南のニホンオオカミも絶滅した。本州でも最後まで残っていたのが、奈良県や岩手県であったらしい。
一般的に、ニホンオオカミの最後の個体といわれているのが、明治38年(1905年)1月23日、奈良県東吉野村の鷲家口で、東亜動物学探検隊員の米人マルコム・アンダーソンに売られた雄の標本だ。この個体を最後に絶滅したといわれている。そのため現在、東吉野村小川(旧鷲家口)に、ニホンオオカミの等身大ブロンズ像が建てられている。
しかし、岩手県民には失礼な話だが、昔は「日本のチベット」などと揶揄されていたように、山深い岩手県に狼が最後まで生き残っていた可能性もあるのだ。
遠藤公男著『ニホンオオカミの最後』(山と渓谷)によれば、明治40年10月13日の巌手日報に「狼を捕獲す」と題した記事があったそうだ。岩手郡中野村(現盛岡市)西安庭というところで、狼3頭を捕獲したというのだ。
アンダーソンが奈良県で狼を買ってから2年9か月後で、これが本物の狼だったとしたら、奈良県の狼よりも新しいので、日本最後の狼になるかもしれないが、この記事の動物が、本当の狼だったのかどうかは、今となってはわからない。たいへん残念な話である。もし本当の狼だったとしたら・・・
再び、オオカミ現る! 東北地方の狼信仰
ところで、東北地方の狼信仰を知るうえで、貴重な展示が行われた。2018年10月19日から12月19日まで、宮城県村田町歴史みらい館で開かれた企画展「再び、オオカミ現る! 東北地方の狼信仰」である。
この展示の立役者は、宮城県内の猫・狼などの石碑を研究している村田町歴史みらい館の専門員・石黒伸一朗さんだ。
私も10月下旬に訪ねて、石黒さんに話を伺いながら展示を拝見したが、新発見の資料も多く、これでもか、これでもかというくらいの「狼圧」を感じた。内容が濃すぎるのだ。だから見る方も心してかからなければならない。少しでも気を緩めれば、「狼圧」に押しつぶされそうになる。彼の狼に対する熱い思いがこの「狼圧」を生み出したといえるだろう。
狼の姿が入ったお札を刷った版木6枚、「神習教虎捕講社」の資料、狼の絵が入った祭礼用の幕、狼の石像など、福島県を中心に発見された貴重な資料が初公開されたのだ。その中には、文化財に指定されてもおかしくないようなものもあった。狼好きにはたまらない企画展で、実際、訪れる人は、東北在住の人ばかりではなく、関東や関西からもやってきていた。
石黒さんの狼にかける情熱
それにしても石黒さんの狼にかける情熱は半端なく、これからも、いろんな資料が発見されていく予感はして、東北の狼信仰については、まだ知られていない部分が大きいなぁというのが率直な感想だ。
石黒さんはいう。
「私はお札や版木、浮き彫りした石碑、石像など、狼の図像に興味がありますが、その顔は凶暴なもの、ひょうきんなもの、あるいは可愛いいものと様々です。その狼の図像は、人間をあらゆる災害から守ってくれる存在として重要だと思っています。狼の信仰物を調べ、地元の方に伝えると同時に広めていきたいですね」
石黒さんが、何かまた発見してくれるのではないかと期待している。