人々は森を伐り開いてその恵みに与かりながら暮らしてきました。
やがて森の減少が進むと、自然に頼るばかりでなく自ら植林して緑の維持に努めるようになりました。豊かな森をつくる努力は今も変わらず引き継がれています。

相次ぐ寺院の建設で奈良の都は木材不足に

古くから人々の暮らしを支えてきた森。人々は森をフルに利用してきました。

木を伐り出して建築資材料とするのはもちろんのこと、弥生時代になると鉄製の農工具が普及して森林の開発が容易になり、盛んに農地が開かれて稲作が行われるようになりました。鉄製品の普及はあらゆる面で能率の向上を促しましたが、製鉄のためには大量の燃料を必要としました。そのため人里近くでは、木の需要が高まるにつれて既存の森は減少する一方で、やがては荒地に強い樹木にとって代わられて姿を変えていきました。

古墳時代に入り国家としての体裁が整ってくると、宮殿の建設や仏教次ぐ寺院の創建で大量の木材を必要としました。当時は天皇が代わるたびに宮殿を造りましたので、しだいに周辺の森だけでは不足をきたし、だいぶ離れた琵琶湖周辺の山から伐り出して、筏(いかだ)を組んで都近くまで運びました。

このころ、朝廷に仕え世襲的に森林の管理や伐採を行う「山部」あるいは「山守部」といわれる集団がいました。また、東大寺では寺に所属して、伽藍造営のために山林を管理し、伐採や造林を行う山作所が置かれていました。

貴族の荘園は農地化が進み、森が減少して農業生産の場に

701年に施行された大宝律令では、特定の場所を除き全ての人に山川林野の利用が許されました。そこで人々は自由に出入りして草を刈り、薪をとり、山菜の恵みに与かりました。後にこのような山野の利用形態を「入会」というようになります。

平安遷都から30年ほど後に、水源林の伐採を禁じた法令が発布されました。しかし、この時代には王侯貴族や有力寺院が私的に領有する荘園が広がり、そこでは森を開墾して農地化が進められました。平安の半ば以降になると、森林が減少した荘園は農業生産の場に変わり、それまで森で働いていた人たちは農業に従事するようになりました。

各地で屋敷林や神社の森が見られるようになったのもこのころです。当時、常陸国鹿島神宮でスギ4万本、クリ5千数百本を植えたという記録があり、そこには「これまで国内の山から伐り出していたが、運搬が大変なので付近に植えた」とあります。神社の森では、他にヒノキやケヤキなども植えられました。

植林が全国に広がり、秀吉は城造りに銘木を大量消費

12世紀末、鎌倉に武家政権が誕生しました。鎌倉は海に臨んで独特の地形を呈し、三方から取り囲む山並みは豊かな森を形成し、これが敵の侵入を妨げる要害林として機能していました。

古くから寺社の森は大事にされていましたが、このころ、下総国香取神宮では神の林として境内のタケの伐採を禁止、また、備前国金山観音寺では樹木の伐採とともに狩猟を禁じています。その後、京都の神護寺でも幕府により伐採が禁じられました。

1232年、幕府により御成敗式目が定められ、その中でも自由で分け隔てのない山野の利用が認められていました。大化の改新以来のこのルールは後世にも受け継がれ、戦国時代の奥州伊達家の御成敗式目では山野の利用は認めても開墾は禁じています。

室町時代には木材の生産地は全国に広がりました。京都の北山杉の生産も、このころか江戸初期に始まるといわれます。切り株を台座にした独特の栽培法で、節をなくすためにすっかり枝を落とした幹が真っ直ぐ伸びて林を形成する光景は壮観です。

奈良県の吉野杉は中世以降、金峯山信仰の興隆で寺社建設のために伐り出され、やがて遠方にも出荷されて減少し、16世紀初めからスギやヒノキの植林が始まりました。豊臣秀吉の天下統一後、その贅を尽くした城普請にもこの吉野杉と木曽檜がふんだんに使われました。また、吉野杉は灘などの酒樽の材料としても使われ、木目細かく色あい優れた木材を得るために独自の栽培法が考案されました。

森は大事な収入源、厳重を極めた各藩の山林管理

江戸時代になると、以前にも増して木材の消費が拡大しました。徳川家康によってそれまで地方の城下町だった江戸を日本の政治の中心地とするための大工事、豊臣氏の動向に備えた関西方面の城普請、江戸の町づくりが完成して以降も度重なる大火とそこからの復興など、この時代は木材がいくらあっても足りませんでした。江戸の発展に伴い、全国の森林が消えていきました。これまで幕府では伐採の制限や木材の倹約など、いろいろ対策を講じてきましたが、もはや自然林ばかりに頼ってはいられず、本格的に植林が始まったのは江戸時代中期になってからでした。

森林の経営は藩が直接行う場合と、農民に貸して植林させ、伐採した後利益を分配する方法がありました。その場合、分配は金銭か、伐採した木の数により、2対1や3対2程度の配分で藩側が多くとるのがふつうでした。秋田藩では逆に、農民のほうを多くして作業者の増加を図りました。また、肥後人吉藩では村民に一定数の植林を義務付け、伐採後1本の木を3等分して真ん中の一番いい部分は藩に、残りは村民に与えられました。

どこの藩でも森林は大事な収入源、その管理は厳重を極めました。木曽の山林を領有していた尾張藩では特にヒノキなど5種類を定め、藩の利用以外の目的では伐らせませんでした。これを留木あるいは禁止木といい、樹種は異なりますが多くの藩で定めていました。また、森全体の立入りを禁じた留山も各地に存在しました。禁を破ればもちろん重罪、木を傷つけただけでも過酷な刑に処せられました。

高度経済成長がもたらした林業界の問題点と歪み

明治維新後、幕府や各藩の山林は全て新政府に返上されて「国有林」となり、入会地などで個人所有が明らかな森は「民有林」として認められ、林野の官と民の所有区分が明確にされました。

新政府は各地の草地を利用して、大々的にスギとヒノキの植林を進めました。また、外国から技術者を招いて治山治水や荒廃地の復旧、海岸林の造成など、保全林業の進展にも努めました。農家の所有林に対しては、薪炭生産にとどまらず、ワサビやシイタケ栽培など森の産物生産も奨励されました。

第二次大戦時には軍需材として無制限に木が伐り出され、全国の森は荒れ放題になってしまいました。戦後、森を復活させるために急ピッチで植林が進められましたが、全国をカバーするのに1年ほど要しました。

その後の高度経済成長期には、都市化の拡大に伴う大規模開発による自然環境の喪失、農山村からの労働力の流出、地価高騰による農林業からの転換など、さまざまな問題が浮上しました。これ以降、人々の間で森林管理の重要性が認識され、環境問題への取組みが盛んになり、各地で緑の保全運動などが展開されるようになります。

森と木を守り育てるためには人の手が必要なこともある

現在、日本の森林は国土の約7割を占め、おもに人工林と天然林で構成されています。人工林は用材の生産を目的として人が苗を植えたり種子を蒔いて更新した森で、全森林面積の4割ほど、生長の早いスギやヒノキなどの針葉樹が主体です。天然林は人の手が入らず、こぼれ種子や切り株から出た芽などが生長して形成された森で広葉樹が多く、身近な里山から山奥深くまで広範囲に分布しています。

環境への関心の高まりに伴い、一部に木を伐ることを罪悪視するような風潮もありました。しかし、環境に優しい働きを森に期待するのであれば、更新されるサイクルの短い人工林などでは植林、間伐、伐採を繰り返してつねに林内をフレッシュな状態にしておく必要があります。人工林は人間側の働きかけがあってはじめて、健全な森に育つのです。