大学の図書館で見つけた柳田國男の書物との出会いから、民俗学の研究者の道に進んだ新谷尚紀先生。柳田の思想を受け継ぎ、フィールドワークにより、数多くの事例を集めて比較するという研究手法によって、日本の文化に関する新しい学説の数々を唱えてきました。
そんな新谷先生が、次世代の民俗学の発展を見据え、今新たに提唱するのが民俗伝承学という考え方です。歴史書では語られない日本の歴史が見えてくるという民俗伝承学について、新谷先生に詳しくお聞きしました。
文 : 村田保子 Yasuko Murata / 写真 : 谷口哲 Akira Taniguchi
民俗伝承学者・新谷尚紀(しんたに・たかのり)
1948年、広島県生まれ。1971年早稲田大学第一文学部卒業
1977年早稲田大学大学院文学研究科日本史学専攻博士後期課程単位取得。国立歴史民俗博物館名誉教授、国立総合研究大学院大学名誉教授などを歴任。現在は國學院大學文学部教授。社会学博士。
『伊勢神宮と出雲大社—「日本」と「天皇」の誕生』(講談社選書メチエ)、『日本人の春夏秋冬─季節の行事と祝いごと』(小学館)、『お葬式—死と慰霊の日本史』(吉川弘文館)、『神道入門』(ちくま新書)など著書多数。2018年11月に、國學院大学の教え子たちの論文をまとめた『民俗伝承学の視点と方法―新しい歴史学への招待―』(吉川弘文館)を出版。
人々の暮らしそのものに宿る学問
民俗学という言葉は、明治に日本に入ってきた英語のfolklore(フォークロア)という言葉の翻訳語です。もとの意味は、folk:庶民のlore:知恵という合成語なのですが、今日では「民間の風俗や習慣を研究する学問」という意味合いで理解されています。
しかし、日本の民俗学の礎をつくった柳田國男は、「Tradition Populaire(トラディション・ポピュレール)」というフランス語に注目し、これを民間伝承と訳し、自身の学問の基本としました。
「Tradition」は、伝統と訳されることもありますが、柳田は伝統ではなく「伝承」と訳しました。伝統は良いものだけを取捨選択した感じの言葉となりますが、伝承は悪いものも含めて伝えられる、運動という意味合いがあるからです。柳田は良いものも悪いものも含めた、トラディションの全体の中から見えてくるものがあると考えていたのです。
私は柳田國男やその弟子と自称する折口信夫が創生した、この民俗学の流れを正しく次の世代に伝えるために、あらためて「民俗伝承学」という名前を提唱していこうとしています。これを英語で言うならば、「Tradition and Transition (トラディション アンド トランジッション)の研究」、つまり、Tradition:伝承とTransition:変遷との両者を含めた研究という意味になると考えています。
変わりにくいものと変わってしまうものとが、表裏一体となっている生活文化の歴史情報が、民俗伝承学の対象となるものです。
なぜ、神社や寺院で賽銭を投げるのか?
私が、これまで研究対象としてきたのは、1.両墓制という土葬の時代の墓制、2.死と葬儀と墓の民俗、3.戦争と死者・記憶と慰霊、4.身近なしぐさとその意味、5.貨幣とは何か、6.人の一生と儀礼、7.神とは何か、神社の神事と祭礼、8.高度経済成長と生活変化、などさまざまです。
それらの研究から導き出された分析概念の一つが、「ケガレとカミ」です。
なぜ、神社や寺院で賽銭を投げるのか?
人にお金を渡すときに投げてわたすのはたいへん失礼です。それなのに、私たちは何も考えずに賽銭のコインを投げています。
それについて研究を進めて行くと、お金には、経済的な役割と経済外的な役割との両方がある、その経済外的な役割として、自分の身についている災厄やケガレを吸着してくれている、そんな考えが潜在していることが見えてきたのです。
自分の心身のケガレを託したお金を神社や寺院の賽銭箱に投げ捨てることによって、祓え清めてもらえる、そのような考え方があるからだということがわかってきたのです。お金を投げ捨てることによって、自分の心身を清めているのです。
つまり、神社や寺院は、人びとのケガレを投げ捨てる場所なのです。いわばゴミ捨て場です。そんなバチ当たりな結論が出てくるのです。
そんなこと言って大丈夫なのか、と心配になってきますよね。
でも、鎌倉には銭洗い弁天もあるし、ローマのトレビの泉は有名です。清水の湧いている池にはよくコインが投げ込まれています。聖なる清水の湧くところに建てられている神社や寺院の例も、古くから多くあります。
神社や寺院はただのゴミ捨て場ではなく、人びとのケガレを祓え清める場所である、ということがみえてきます。貨幣はケガレの吸引装置であり、神社や寺院はケガレの吸引浄化装置である、というしくみがみえてくるのです。
歴史書に書かれない事実の魅力
では、ケガレとは何か。
それは、身体的には病気やケガや出血など、自然的には災害や飢饉など、社会的には暴力や犯罪など、いずれも生命活動を脅かすもので、それらの究極は死です。
不潔・危険・感染・強力という四つの特徴をそなえています。ですから、祓えや清めという対処が必要です。
そこで、具体的な災厄の祓えや清めという民俗伝承の具体例を集めてみます。
たとえば、東日本各地の村境に祭られている道祖神ですが、それは兄妹相姦の伝承を伴いながら火中に投ぜられる石像であったり、人びとのケガレを依りつけた藁で作られ、陰陽の性器が強調される藁人形であったりしています。
つまり、道祖神は人びとのケガレが集積された人形であり、それが村境へと祓え出されることによってその価値が逆転して神へと変身しているのです。そこには、ケガレが祓えという一定の儀礼を経ることによって、カミへと祀りあげられるというしくみがある、ということがわかります。
古事記や日本書紀の神話の中にも、そのようなメッセージが伝えられています。
黄泉の国を訪れて死の穢れに触れてしまった伊弉諾尊(イザナギ)が、小門の阿波岐原で禊ぎ祓えをした時に、死体を見てしまった左の眼をまず洗ったときに生れたのが、天照大神(アマテラスオオカミ)であり、死臭を嗅いでしまった鼻を洗ったときに生まれたのが素戔嗚尊(スサノオノミコト)だといっています。
アマテラスやスサノオは、死の穢れの禊ぎ祓えの中から誕生した神さまだというのです。
このケガレの逆転のメカニズムは、多くの縁起物の場合にも見いだされます。
葬儀の棺担ぎ役のひとが脱ぎ捨てた草履を拾って履くと足が丈夫になる、汚い馬糞を踏むと足が速くなる、女性の髪の毛を船の守り神の船玉さまのご神体として祀る、などそのような例は数限りなくあります。
このような民俗伝承を集約して設定したのが、死をめぐる分析概念としてのケガレでした。
すると、ケガレ:死の力 に対するものが、カミ:生命力 という関係が浮かび上がってきます。ケガレ:power of death に対する カミ:power of life という対になる分析概念、ケガレとカミという対概念が設定されるのです。
柳田と折口が導き出した分析概念の一つが「ハレとケ」でした。それに加えて、あらたに導き出したのが「ケガレとカミ」というこの分析概念でした。それを、民俗伝承学の成果の一つとして提供したのです。
このように日本各地の民俗伝承を見ていくと、歴史学では語られなかった歴史の世界が見えてきます。
歴史学や考古学が、いわば静止画で歴史をとらえるのに対して、民俗学・民俗伝承学は動画で歴史をとらえます。そうすると、同じものを扱っていても、読み解く世界と意味とが微妙に異なってくるのです。そして、その画素の緻密な静止画の世界も歴史ですし、つねに伝承という運動をくりかえしている動画の世界も歴史であるということがいえるのです。
生涯のテーマを決めた図書館での出会い
私は広島県の山奥の高校を出た後、早稲田大学で文献の歴史学を勉強しました。地元の広島大学にも合格しましたが、それは東京に行きたいという理由を正当化するためでした。地元の広島大学に合格できないような者が東京の私立に行ってどうするのか、というような無言の圧力を感じていたからです。
実家は農家だったのですが、子どもの頃に家の仕事を手伝わされるのが嫌で、家は長男が継ぐことが決まっていたから、私は高校の頃から家を出て下宿していました。
家を出ると、自由な時間がたくさんあり、若いころのこと、哲学に憧れをもつようになったのです。R.デカルトの『方法序説』から始まり、西田幾多郎や和辻哲郎など日本の思想にも興味をもつようになり、日本の文化を哲学的な視点で考えてみたいと思うようになりました。
大学に入ってからはデモに明け暮れる学部の教室よりも、よく図書館に通い、いろいろな本を読みました。そこで、柳田國男が中心となって発行していた『民間伝承』という雑誌に出会ったのです。
歴史の教科書に載っていないような昔からのしきたりや習わしが、歴史を研究する材料になるということが書いてあり、とても惹かれました。
そうして、柳田にはまり込んだ結果、卒業論文では「憑き物習俗の研究」がテーマになりました。
広島県の山間部で過ごした子ども時代に、犬神という憑き物の話をよく聞いたことがあり、島根県域にもまたがって憑き物筋の家の話がたくさんあったのです。
卒業論文を指導してもらった先生も、民俗学は、民俗伝承の多くの事例を集めて、新旧を比べてみる学問だといわれ、憑き物習俗のような伝承も、一つの歴史情報として価値があるといって、興味をもってもらえて、とてもやる気になりました。
「多くの同類事例を集めて新旧を比べる」というのはたしかに民俗学の基本で、柳田がそのことを熱心に説いていました。歴史学は、古文書や古記録の文言一つからでも事実がわかる単独立証の方法、民俗学は一つの事例だけでは分からない、だから、たくさんの同類事例を集めて、なるべく画素を細かくすればするほど、事実が見えてくるという重出立証の方法なのです。私は卒業論文での取り組みから、最初にその基本を学びました。
フィールドワークからのみ見える真実
大学院に進み、修士課程に入ってから、憑き物の犬神の調査をその本場ともいうべき四国地方で進めようとしました。
その旅の途中で、竹垣で囲われた墓がいくつも並んでいる墓地を見つけました。そこには墓石が建てられていないのです。墓石はそことは別のお堂のところにあるのです。埋める場所と墓石を建てる場所とがちがう、つまり、それは両墓制とよばれるものだということを知り、とても興味をもって興奮しました。新しいテーマとの出会いです。
両墓制を研究したいと考え、いろいろな先生に相談したところ、両墓制の研究はもう古い、ブームは終わっているという話でした。でも図書館で、自分なりに先行研究や文献を調べてみると、いろいろな説がありましたが、私が抱いた「なぜ別の場所に埋めるのか」という疑問は、解決されていませんでした。
私は柳田の教えに従い、各地を歩き回り、2年間で約150地区の両墓制の事例を現地で調べました。そうした中で、石塔を建てない地域、埋葬墓地から離れて遠くに建てる地域、すぐ近くに隣接して建てる地域、埋葬墓地に建てる地域、の別があることが分かりました。
そこから、昔はすべて埋めるだけの墓だったのが、石塔という新しい要素が中世末から近世初頭にそれぞれの地域に入って来た時に、その取り入れ方にそのようなバリエーションがあったのだという新しい説を唱え、論文にまとめました。
次世代に引き継ぐべき学問の思想と技能
私はこの研究を通して、柳田が言っていた、同じ時代に生きていた人たちの生活慣習の中にも、古い層、中間の層、新しい層が、まだら模様で伝承されているということを知ることができたと考えています。
生活慣習の中に新しい技術も入ってきていますし、同時に古い信仰も残っている、中間的な思考も残っている、そういう観点で見ていくことで、歴史記録に書かれていない歴史の事実が見えるという提案をしていく、それが民俗伝承学なのです。
民俗学の強みは、絶対的な本質論ではなく相対的な変遷論であること。その変遷の動態を分析するのが伝承学の視点です。
民俗伝承学は、歴史学、人類学、社会学、宗教学など、他の領域と対話し協業できる独創的な学問です。歴史や建築、経済など、他の分野と共同研究することが、より自分たちの学問を鍛えることにつながると考えています。
現在は、國學院大学で伝承文学というコースで、民俗学を教えていますが、ここで私は、柳田、折口の学問の思想と技能を受け継ぐ、次の世代の民俗学の研究者を育てることを目指しています。
その小さな一つの成果として、私が教えた学生たちが書いた論文を編纂した論文集『民俗伝承学の視点と方法―新しい歴史学への招待―』(吉川弘文館)を、2018年12月に出版しました。これでやっと、柳田、折口へ小さな恩返しができたかな、と感じているところです。