曲り家は日本の農家の伝統的な建築様式のひとつです。人が暮らす主屋から馬屋の部分が直角に突き出すような造りになっていて、上から見るとL字型になっていることから曲り家と呼ばれるようになりました。

土間の部分を中心にして主屋と馬屋をL字型につなぐ。

岩手県や青森県など、かつての盛岡藩領に数多く残っているため、「南部曲り家(なんぶまがりや)」と呼ばれることが多いのですが、こうした農家の造りは広く北関東から東北一帯で見ることができます。また、馬屋を直角に突き出すことなく、そのままつなげた農家もあり、こちらは直家と書いて「すごや」や「すぐや」、「じかや」と呼ばれます。

米の穫れない遠野の農家にとって、馬は貴重な収入源。家族同様、大切にしていました。

今回訪ねたのは遠野市郊外にある遠野ふるさと村。ここには近郷に点在していた6棟の曲り家と1棟の直家が移築・復元されていて、まぶりっと衆と呼ばれる地元の年配の方々がそれぞれの家に常駐しています。

ちなみに「まぶりっと」とは遠野の方言で「守り人」の意。古くからの文化と伝統を守り、来村者に語り伝えてくれる人のことです。

竈(かまど)の煙は土間と馬屋を暖め、馬屋の上に設けられた破風から外へと流れてゆきます。

<一般的な曲り家の間取り>

長くて厳しい北国の冬を人も馬も快適に過ごせる家。

昔の囲炉裏を利用した掘りごたつ。藤田さんが座っている位置が、ちょうど囲炉裏端の横座(家長の座る位置)で、そこからは真正面に馬屋が見えます。

「このあたりで米が穫れるようになったのは戦後しばらく経ってからのことでな。それまでは養蚕と炭焼き、そして馬を育てることが農家の主な収入源だったんだよ」

こんな話を聞かせてくれたのは、まぶりっと衆の会長を務める藤田栄さんでした。昭和3年(1928年)生まれの藤田さんは今年87歳。附馬牛という遠野郊外の集落で生まれ、昭和30年代に集落の大火で自宅を焼失するまで、ずっと茅葺きの曲り家で暮らし続けてきた方です。

楽しい子ども時代の思い出を語ってくれた新田和子さん。竈から立ち上る煙には屋根の茅を保護する働きもあり、火を焚かないとすぐに痛んでしまいます。

曲り家という独特な農家の造りが生まれた背景には、やはり東北地方の長く、厳しい冬があります。馬屋を常に暖かく保ち、しかも、身近なところから馬の様子を見守るには、主屋と馬屋が一体になった曲り家こそが最適だと藤田さんは言います。

曲り家の中央部、「ニワ」と呼ばれる土間には大きな竈があり、立ち上る煙は馬屋を暖めながら、その真上にある破風を抜けて外へ流れてゆきます。また、土間の奥、「ダイドコ」と呼ぶ板の間には囲炉裏が切ってあり、家長が座る「横座」の位置からは、馬の姿が真正面に見えるようになっています。

「今朝は元気ねえから飼い葉に米糠さ混ぜてやるべ……なんてことを主人はいつも考えていたんでしょう」

今回撮影した『大野どん』は板の間の奥に「表座敷」「奥座敷」という二間の客間が連なる立派な造り。

藤田さんが今でも鮮明に記憶しているのは、戦前のある年、2歳馬のアオ(黒毛)に秋の競りで600円という高値が付いたこと(単純に換算はできませんが、物価水準から類推すると当時の1円は現在の3000〜5000円に相当)。家族は大いに喜び、藤田さんの名前にちなんで「栄山号」という立派な名前を付けて送り出したそうです。こんなエピソードからも、遠野の人たちがどれほど馬に愛情を注いでいたか窺い知ることができます。

土間の一部は馬具や飼い葉を保管するスペースになっていて、その先に馬が飼われていました。

今回出会ったもう一人のまぶりっと、新田和子さんにとっても、曲り家には忘れがたい思い出がいっぱい詰まっているといいます。

昭和27年生まれの新田さんの場合、自分の生まれた家は普通の民家でしたが、母方の実家が昔ながらの曲り家だったそうです。広くて暖かいニワやダイドコは子どもにとって格好の遊び場。冬の間は、放課後や休日になると親類の子どもたちがおばあちゃん家に集まり、いつも一緒に遊んでいたといいます。

「父は娘たちが家に居着かないのを切なく思っていたらしく、東京オリンピックの時に無理してテレビを買ったりしたんですよ(笑い)」

馬とともに厳しい冬を乗り切るための知恵や工夫が、曲り家にはぎっしりと詰まっているようでした。

日差しをたっぷりと浴びる広い縁側。

遠野ふるさと村

広い敷地に昔ながらの遠野の風景を再現した体験施設。
約20名のまぶりっと衆が交代で曲り家に常駐し、実際の農作業も行っています。レストランなども併設。
岩手県遠野市附馬牛町上附馬牛5-89-1
☎0198・64・2300