日本の各地には、素晴らしい風景があります。そして、そこには様々な物語が刻まれています。ここでは、写真家・青柳健二が日本各地で切り取った後世に残しておきたい素晴らしい風景をシリーズでお伝えします。
今回は、福島県下郷町の「大内宿」をご紹介します。

写真・文 : 青柳健二 Kenji Aoyagi

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過去にタイムスリップしたような感覚。

大内宿は、古い町並みが保存された江戸時代の宿場町だ。会津城下と下野の国(栃木県日光市今市)を結ぶ全長約125キロメートル(32里)の下野街道の中で、会津城下から福永宿、関山宿の次、3番目の宿駅として整備された。

現在、観光客のための駐車場が、宿場の北側や南側に設けられていて、観光客は歩いて町の中へ入っていくようになっている。

大内宿の北側にある子安観音堂に上がり見晴台に立って俯瞰してみよう。息が切れるほどの急な階段を上っていくが、宿場を一望にできる感動は何物にも代えがたい。江戸時代の風情を残した茅葺の家並みが目の前に広がり、過去にタイムスリップしたような感覚を味わう。

戊辰戦争時、会津軍と新政府軍の激戦地となった。

見晴らし台を下りて、宿場の中を歩いてみる。用水路の水音も涼しげで、蕎麦屋で食事をしたり、土産物屋を覗きながら散策するのは楽しいものだ。

日が暮れ始めると、通りに面した商店が店仕舞いを始めるが、観光客の姿も少なくなり、ますます古の雰囲気が色濃くなってくる。この薄暗くなりかけた時間帯もお勧めである。

下野街道は、会津、庄内、米沢、新発田、村上藩などが参勤交代の道として利用した。江戸廻米の輸送などでも使われる重要な街道だった。伊達政宗の小田原参陣や豊臣秀吉の奥羽仕置きの際にも、大内宿を通行した記録がある。また、戊辰戦争の時は会津軍と新政府軍の激戦地にもなった。

慶応4(1868)年8月末、大内宿で会津軍は新政府軍と戦ったが、会津軍は敗北し最後の防御線であった大内峠まで退いた。その際、新政府軍に利用されないように、宿場を焼き払おうとしたが、当時の名主阿部大五郎はじめ、村人たちの必死の頼みで火がかけられることを免れた。そのおかげでこの宿場の姿を今に残すことができたともいえるだろう。

英国人の女性旅行家、イザベラ・バード

明治初期、大内宿を旅した女性旅行家がいた。イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird)だ。

英国人のイザベラ・バードは明治11(1878)年に来日した。サンフランシスコから太平洋を渡り5月21日に横浜港に到着し、6月から9月にかけて、日光から会津を通り新潟・山形・秋田・青森・北海道を旅した。1885年には旅行記『Unbeaten Tracks in Japan(日本奥地紀行)』を出版した。彼女はこのとき46歳だったそうで、当時の環境を考えると、旅は相当厳しいものだったろうと想像するのだが、東北地方の様子をありのままに伝える記録として貴重なものになっている。

6月27日、その日の朝、彼女は川島を発ち、田島を経由して夕方大内宿に到着した。

「私は大内村の農家に泊まった。この家は蚕部屋と郵便局、運送所と大名の宿所を一緒にした屋敷であった。 村は山にかこまれた美しい谷間の中にあった。」

宿名は記されていないが、当時郵便局・運送所の役を担っているのが美濃屋(阿部家)だったことから、美濃屋に泊まったのだろうと推測されている。阿部家は代々大内宿の名主を歴任した家柄で、「美濃屋」を屋号として掲げていた。阿部家住宅は宿場の北側に位置し、江戸時代末期の慶応年間に建てられた古建築物は、木造平屋建て、寄棟、茅葺で、現在は土産物屋になっている。(ちなみに美濃屋分家は蕎麦屋)

イザベラ・バードは、翌28日、大内宿を発ち、市川峠(市野峠)を越え、市川、高田を通過し、坂下街道(県道22号線)を進み、坂下に一泊している。

相澤韶男の尽力と住民による家並み保存活動

明治17(1884)年、日光街道(現在の国道118号線)が開通すると、大内宿は街道から外れ、主要な人や物の流れからすっかり取り残されてしまった。それが逆に奇跡的に茅葺きの家並みを残すことになった。

しかし、すんなりと家並みの価値が認められて保存されたわけではなかった。ここには青春をかけて家並み保存に尽力した人物がいた。

それは1967年、会津の調査に訪れた武蔵野美術大学の相澤韶男教授(当時は建築学科4年の学生)だったという。村に居候しながら保存の必要性と意義を村人に訴えたが、村人の意見は賛成・反対と2分されたそうだ。誰もが鉄筋コンクリートの建物にあこがれ、茅葺民家などは貧困の象徴で、前近代的な建物と考えられていた時代では仕方なかったろう。

しかし、相澤教授は村人や役所に熱心に訴え続けた。そして1981年4月18日、大内宿は重要伝統的建造物群保存地区に選定された。

ちなみにこれは長野県の妻籠宿、奈良井宿に続いて宿場としては全国で3番目の選定になる。

同年9月、「大内宿保存会」が設立されて、住民による家並み保存活動が始まった。「大内宿を守る住民憲章」も制定された。「売らない・貸さない・壊さない」の3原則を掲げ、伝統的な茅葺きの技術の習得や継承に全員で取り組むようになった。それは大内宿の価値を自らが認め、次世代へと繋ごうという住民の意識改革でもあった。

東日本大震災で落ち込んだとは言え、平成30年には、年間80万人の観光客が訪れている。うち4万人は外国人だ。

大内宿は、観光業で賑わう「古くて新しい宿場」に変わった。