日本文化の研究者であり日英の翻訳家、そしてこの『めぐりジャパン』の英文エディターでもあるニュージーランド女性、Judy Evans(ジュディ・エバンス)さんが、日本各地を訪れてレポートします。
その第1回目は、北アルプスの麓、長野県安曇野にある日本最大のわさび農場「大王わさび農場」と、この地で作られる本わさびの話です。

アルプスの麓にある大王わさび農場

日本のわさびの40%前後が、本州の中央に位置する山岳県、長野県で栽培されています。この3,000m級の日本アルプスに囲まれた山岳地域は、山の湧き水や雪解け水によって作り出される美しい清流や、日本海や太平洋に注ぐ豊富な水量を誇る一級河川に恵まれ、わさび栽培にはたいへん適したところとなっています。

この長野県のわさび栽培の中心となっているのが、県の中央に位置する安曇野地域で、ここには、日本最大のわさび農場「大王わさび農場」があります。

日陰を好むわさびを夏の厳しい日差しから守る日陰布の海

澄み切った清流と透明な泉は、わさびの栽培に理想的な環境

10月半ばのある晴れた日、大王わさび農場に到着したのは、すでに日も高く上がった昼ごろで、初秋の日差しが明るく農場全体を包み込んでいました。

農場のメインの入り口を通り抜けると、まず耳に飛び込んでくるのは、水が滴り落ちる音です。わさびの命とも言える水ですが、この大王わさび農場を潤す豊富な水は、北アルプスの名峰・槍ヶ岳を水源とし、アルプスの山水を集めながら松本市を流れる一級河川・犀川に注ぎます。この犀川は長野市で千曲川と合流、そこからは信濃川となり、日本海に面した新潟市を経て、最終的には日本海へと注ぎます。

大王わさび農場は、この犀川と、同じく北アルプルの燕岳(つばくろだけ)を源流とする穂高川の合流地点に位置し、この2つの川が運んだ砂礫の堆積扇であり、また高知特有の湧水が豊富であるというふたつの要素が重なり、わさびの栽培地として理想的な場所に位置します。 

水路は複雑な網状河川(多くの浅い水路と砂州からなる河川)となっており、山から流れる急流が平らな砂を通って複数の水路を創り出し、その後合流して北に向かって流れます。これらの水路のうちいくつかは、15ヘクタールの大王わさびの敷地を通過し、周囲を流れています。この敷地の多くは、100年以上前までは開発されていなかった湿地でした。

流れが速く複雑な犀川水系の多くの水路のうちの 2 つが、大王わさび農場の隣で合流します

名水100選に選ばれた「安曇野わさび田湧水群」

大王わさび農場を流れる水には、特別なものがあります。驚くべき透明度だけでなく、わずかに青みを帯びた色合いは、その水質の純度を証明しています。 そして、この優れた水質は見過ごされることはありませんでした。

日本の環境省は1985年に、優れた水質だけでなく、歴史的価値や地元の人々の環境保護活動による厳しい選定基準を満たす全国の水源100箇所を選定しました。大王わさび農場に滋養を与え続けているこの水は、このリストに選ばれ、「安曇野わさび田湧水群」として指定されました。

ここを訪れる者は、農場の中心にある井戸や泉で、この有名な水を味わうために並び、また、井戸の隣にあるカエルの像にも水をかけて幸運を祈ります。

長期的なビジョンと並外れた努力が卓越した結果を生み出す

大王わさび農場の第一世代の先駆者たちは、1917年まず最初にその農場となる土地の所有者たちからこれを取得することから始まりました。

その土地の所有者はたいへん数が多く、それも5つの村に散在していました。困難な交渉を経てなんとか土地を取得し、それから、雑草の除去作業や泉へのアクセスと水路の造り、高地の造成などの作業は長く過酷であり、それも現代の土木機械なしで行われました。

そして、現在私たちが見ることができるわさび農場が確立するまでには20年以上の歳月を要したのです。

澄んだ湧き水がわさびの苗の根元を流れ落ちます。

これらの清らかで冷たい泉水供給の水路と砂利の水路床は、わさびにとっては理想的な環境と言えます。なぜなら、この水はわずかにアルカリ分を含み、温度もわさびにとっては最適で、また砂利の水での繁茂は、わさびにとって重要な十分な酸素も得ることができるのです。

イチイ (Taxus cuspidata) の木。 農場の手入れの行き届いた敷地内には、さまざまな成熟した木々が日陰を作っています
黒澤明監督の映画「夢」のために建てられた昔ながらの木製水車

この大王わさび農場では、後に新たなわさび畑が追加されたり、また敷地内に店舗やレストランも建てられ、これらの店舗やレストランは、数十年に渡って改築が繰り返され利用者の利便性が高められました。

また、わさび畑の水路沿いには、木々に囲まれた美しい遊歩道が作られ、来訪者は、わさび畑の広大な美しい景観を、ゆっくり散策しながら楽しむことができるようになったのです。

また、わさび畑に流れ込む川の入り口には、著名な映画監督である黒沢明が作った1990年の映画『夢』にも登場する昔ながらの木製の水車があります。この川では4月から10月まで観光用ボートも運行され、このボートから眺める水車の景観が絶品です。

作業員は秋になると日よけ布を巻き上げるという時間のかかる作業を始めます

驚くべき種類のわさび製品

日本で様々な地域で発生する深刻な洪水が、ここ大王わさび農場では、どのような影響を与えるか気になるところですが、時折、溢れ出た水が、栽培中のわさびの上まで上がり、数本のわさびがダメになることはあるものの、これが大惨事になったことはないとのことです。わさびファンにとってひと安心ですね。

なぜなら、大王さわび農場は、日本最大の単一生産農場であり、農場内の店舗には、わさびペーストから漬物、味噌、そしてもちろん新鮮なわさびの茎まで、あらゆるわさび商品が取り扱われていと言っても過言ではありません。また、お値段もお手頃で、他では手に入らない新鮮なわさびが、手軽に購入することができ、わさびファンにとっては他に替えのない場所になっているからです。

なお、農場内にはレストランやテイクアウトスタンドが点在し、わさびを活用した料理を提供しています。魅力的なメニューには、わさびそばや美味しいわさびコロッケ(わさびの葉で包まれ、わさびマヨネーズと一緒に提供される辛い食べ物)などがあります。

しかし、何と言っても、大王わさび農場を訪れた際に是非とも食していただきたいのが「わさびソフトクリーム」です。ここでしか味わうことができないその風味は、ここを訪れた素晴らしいフィナーレとなることでしょう。

なお、新鮮なわさびは、取り置きでせず、購入した分だけすぐ食べるのがベストです。実際、おろしたてのわさびは空気に触れてから約15分で揮発性の成分が蒸発し、風味が失われてしまいます。そのため、新鮮なわさびは、食べる直前におろすことが重要です。

また、寿司職人はネタとご飯の間にわさび挟みこむように入れますが、これは、わさびが直接空気に触れることを抑え、風味を保つための知恵と言えます。

農場内の売店では、大王スタッフがおろしわさびのサンプルを提供し、使い方や手入れの仕方などをアドバイスしてくれます
大王わさび農場の名物「わさびソフトクリーム」
大王わさび農場ホームページより

本わさびの風味と健康

日陰を好む山のハーブ

本わさびは、日本のわさび属の仲間で(学名Eutrema wasabiまたはWasabia japonica、Eutrema japonica)で、ホースラディッシュ、マスタード、クレソン、キャベツなど、数え切れないほどの料理に使用されるアブラナ科植物の一種です。

わさびの栽培には、前述したように、涼しく透明な清流と砂礫のベッドなど、一定の条件が必要で、真夏季には黒い日陰ネットの下で栽培されます。

わさびの根茎(茎の太った部分)が形成されるまでには、わさびが約60cmの高さにまで成長する必要があり、2〜3年かかる場合もあります。わさびが収穫される際には、茎から葉が取り除かれ、お馴染みのわさびの根茎が得られます。

わさびが健康にもたらす特性

わさびはその高い風味に加えて、長い間日本では抗菌作用と薬効を持つことで高く評価されており、先史時代から日本の食事の一部であったと考えられています。伝統的には、わさびは食中毒の予防に役立つと信じられており、貴族や武将たちの食卓でも必要不可欠な調味料でした。

ケネソウ州立大学で行われた重要な研究は、日本人が常々知っていたことを確認しました。わさびの中に自然に存在する抗菌成分であるアリルイソチオシアネートは、腸管出血などを引き起こす恐ろしい大腸菌O157:H7や黄色ブドウ球菌などの主要な食中毒病原菌の効果的な制御に強力な抗菌性を持っていることが明らかになりました。

独特の風味に加えて、抗菌性と食品を保護する潜在能力は、新たな安全な食品を開発する食品業界にとって興味深い天然の食用抗菌植物として有望です。

わさびの薬効に関する他の研究では、炎症を抑える効果や心臓病の予防、特定の大腸がんの抑制、骨粗しょう症の予防、そして体重減少の助けとなること(少なくともマウスでの研究)が確認されています。この多目的なハーブの健康効果を探求するのはまだ始まったばかりのようです。

わさび特有の揮発性の風味

わさびの全ての部位には、わさび独特の風味を与える揮発性(蒸発しやすい)化合物が含まれており、植物のすべての部分を食べることができます。わさびのペーストは根茎をおろして作られますが、葉や茎、根も刻んでさまざまなレシピに取り入れることができます。

新鮮なわさびを鮫皮おろし器でおろすと、わずかに甘い風味が広がります

新鮮なわさびは鮫皮おろし器でおろされます。新鮮におろしたわさびはわずかに甘味があります。

アリルイソチオシアネートは、わさびの辛さを引き起こす化合物の1つです。新鮮な植物のいずれかの部分が切られたり、細胞壁が破壊されると、酵素ミロシナーゼの反応により、この揮発性化合物が放出されます。わさびの辛さによる目のしみる感覚や鼻の通りを良くする効果は、イソチオシアネートが鼻の粘膜を刺激するためです。

わさびを食べなくてもその効果を実感できます。 タマネギと同じように、植物を切ったりすりおろすだけで涙が出ることがあります。これは、人間に対しての植物の防御機構なのです。

興味深いことに、ミロシナーゼ酵素反応の副作用としてグルコースが生成され甘みが生まれます。私は、おろしたての本わさびが、辛みに加えてほんのり甘いことを、大王わさび農場を訪れたときに知りました。

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(大王わさび農場)

(本わさびの話)

大王わさび農場
長野県安曇野市穂高3640
https://www.daiowasabi.co.jp

写真&文: Judy Evans

日本文化研究者、日英翻訳者、編集者。教育、芸術、生産園芸、ランドスケープデザインに造詣が深く、現在は、ニュージーランドの小さな農場に住みながら、日本語と英語の中学校教師として働いている。日本で長年働いてきたジュディは、今でも頻繁に日本を訪れ、各地の日本文化を探索、その情報を英語と日本語で世界に発信している。