超高層建築が続々と登場して日々変貌を遂げる巨大都市東京。いたるところで未来志向の街づくりが進められていますが、そんなテンポの早い発展の渦中にあっても古い江戸の香りを失っていないのが東京の面白さです。ビルの谷間にひっそりとたたずむ石碑や路地裏の小さな社、あるいは役目を終えて放置されたままのひと筋の水路など、なかば忘れられ、顧みられない歴史の記憶、痕跡を手掛かりに江戸の昔を訪ねて歩いてみます。今回は、前回の新川に続いて江戸の物流を担った「小名木川」です。

小名木川は江東区北部にほぼ一直線に通じる水路で中川と隅田川を結びます。流域はすっ かり都市化していますが、ところどころに残る寺社、点在する石碑や古い道標などが舟運 で賑わった昔を物語っています。

高禄の武士を常駐させて通過する船を厳重に監視

現在、新川と小名木川の間は荒川など三分割された流れで隔てられ、二つの水路のつな がりが不明瞭になっています。江戸時代のこの辺りは、歌川広重の『名所江戸百景』によ れば南流するのは中川一つだけで、そこに東西から二つの川が合流してほぼ十字形の水路 を形成していました。

百景に描かれている中川は現在の旧中川で、小名木川はその合流点 から西に通じ隅田川まで全長 4.6 km、新川の開削と同じ寛永 6 年に大々的な拡幅工事が行 われ物資輸送の大動脈としての役割を担いました。

川の名前については工事を担当した小 名木某にちなむとか、この川にはウナギが多くいてそれが転訛したとかいわれています。

小名木川東のスタート地点中川口は、航行する船を取り締まる船番所が置かれたところ で、すぐ北寄りの旧中川西岸には小名木川の歴史や江戸の水運についての解説、資料を展 示する中川船番所資料館があります。船番所は当初、隅田川との合流点に置かれましたが、 江戸市街の拡張にともない寛文元年(1661)にこの地に移されました。

幕府ではここを非 常に重要視し、5000 石以上の高禄の旗本 3 家をひと組みにして 5 日交替で勤めさせました。 ちなみに小岩や市川の関所に詰めていたのは、禄高わずか 30 俵ほどの武士ばかりでした。 番所の通過に際しては、笠や頭巾をとる、乗り物は中を改められるように戸を開け放つな どと定められ、夜間の航行は江戸に入る船は許されても出る船は停められました。番所の 廃止は明治 2 年(1869)、監視の目がなくなって以降川面はいっそう賑わいを呈しました。

大島小松川公園より小名木川と中川の合流点
平成橋より小名木川と中川の合流点
中川番所案内板
番所橋より小名木川と中川の合流点
番所橋を後に北岸の道

過去の水害の教訓として保存されている旧護岸

番所跡を背に北岸を西にしばらくたどり、川沿いを少し離れた住宅街に塩舐め地蔵を祀 る宝塔寺があります。塩舐め地蔵は江戸初期に小名木川で発見されたと伝えられ、舟人た ちが航行の安全を祈願しました。

川沿いに戻ってさらに西に向かうと塩の道橋で、ここか ら仙台堀川が分流して南に流れ、その分流点は暗渠化されていますが一帯は緑をたたえた 公園になっています。次の丸八橋の北岸には松尾芭蕉像のある大島稲荷神社。芭蕉 50 歳の 頃、小名木川に小舟を浮かべてここを訪れ「秋に添て行はや末は小松川」と詠みました。

南岸に移って砂島橋を過ぎてすぐのところに、旧護岸の一部が残されています。明治末 以降、水運に恵まれていることから小名木川沿岸には大工場が集中し、大正 7 年(1918) の記録では原材料の搬入や製品の搬出のために萬年橋の下を通った船が 735 隻を数えた日 もあったといいます。諸産業の活況は江東区の飛躍的な発展を促しましたが、一方で新川 流域同様地下水の汲上げによる地盤沈下が進み、護岸のたびたびの嵩上げを余儀なくされ ました。

この嵩上げ護岸は水害から地域を守ってきた歴史の証しとして、そして低地に暮らす人々への警鐘として残されました。旧護岸材の上層部は小名木川の水位低下の実現で 不要になり、親水性に配慮して新たに造成された護岸の材料として再利用されています。

塩の道橋の後方に番所橋と大島小松川公園の緑
水害の記憶として残されている嵩上げ護岸の一部
南岸の常夜灯
塩の道橋南岸の仙台堀川親水公園入り口

異なる水位を調節して船の航行を容易にする施設

旧護岸から 500mほど行くと進開橋、そこを過ぎると行く手に JR 越中島支線の小名木川 橋梁が見えてきます。越中島支線は臨海部の越中島貨物駅と新小岩信号場を結ぶ貨物専用 線で、一応昼の時間帯に一往復する以外列車の運行は全く不定期で出会いはきわめて限定 的とか。それでも鉄道ファンに愛される珍しい路線です。

その先、南北に流れる横十間川 との合流点には、交差する二つの川で分割された四つの地域をX字に結ぶ小名木川クロー バー橋が架かります。白とブルーの軽快な意匠で、横十間川上流の方角にはとうきょうス カイツリーが抜きんでて高くそびえています。

次の小名木川橋北詰に五本松跡の標石の立つところは大名の下屋敷跡で、昔は川面にま でせり出す見事な枝ぶりのマツが評判を呼び、芭蕉も名月の頃これを愛でてその風流を楽 しみ句を残しています。傍らには文化 2 年(1805)再建の五百羅漢道標があり、五百羅漢 寺と亀戸天神への道を示しています。五百羅漢寺は現在目黒区に移転していますがもとは大島にあり、特異な 3 階建ての三匝堂(さんそうどう)で知られ亀戸天神とともに参拝客で賑わいました。

小名木川橋の次は小松橋、その先で川幅は狭められ扇橋閘門(こうもん) が設けられています。江東区の地盤は東が低く西が高いため、小名木川でも東西で水位が異なります。そのためここ を境に東側約 3 kmでは人工的に水位を地盤面以下に掘り下げ、西側約 1.6 kmでは護岸の耐 震化を進めています。

閘門は異なる水位でも船が航行できるように水量調節を行う施設で、 二つの水門を設けてその間に船を導き入れ、水門を閉じて水位を進行する側の高さに揃え てから船を送り出します。閘門の完成は昭和 52 年(1977)、夏休み期間には施設の一般公 開があり、水上では遊覧船やプレジャーボートで閘門の通過を体験することもできます。

JR越中島支線小名木川橋梁東面
クローバー橋より横十間川上流を望む
小名木川橋の下を通過する作業船
新扇橋から扇橋閘門を望む

水位によって浮き沈みする浮橋

新扇橋北岸、小名木川と大横川の合流点東寄りには猿江船改番所が置かれていました。 江戸中期に設けられ、中川船番所とは別に幕府や諸藩の荷を運搬する船の監視にあたりま した。

南岸は民営機械製粉業発祥の地で、明治 30 年代、川岸には近代的な設備を整えた製 粉会社が次々に設立され全国屈指の生産量を誇りました。西深川橋の北には近代の輸出陶 磁器製造所跡があり、この一帯では明治期の重要な輸出品として新たな技法や意匠を凝ら した陶磁器製造が行われ、製粉業などとともに一大工業地帯としての発展を担いました。

川沿いの散策路をたどるとき、道は西深川橋の下では浮橋になっています。浮橋は水位 によって変動があり、揺れを感じることもあれば、全く気づかずこれまでの道の延長のよ うなつもりで過ぎてしまうこともあります。

次の高橋は清澄通りに架かる橋で隅田川はも うすぐそこ、一帯は低い土地だったため両岸に高く石を積み上げて橋を渡したことからこ の名になったといわれます。ここを過ぎると、行く手には隅田川の眺めを遮って新小名木 川水門が立ちはだかります。水門の完成は昭和 36 年、水の流出入をコントロールして水位 を安定させ、地域を水害から守っています。

大横川の扇橋より上流を望む。黄色い浮遊物の先が小名木川との合流点、その上流に
見えるのは猿江橋
小名木川南岸より大横川との合流点、その先に新扇橋
西深川橋下南岸の浮橋

隅田川との合流点は富士の絶好のビューポイント

水門を過ぎると萬年橋で、小名木川はその先で隅田川に合流します。萬年橋は小名木川 流域でもかなり古くに架けられた橋で、延宝 8 年(1680)の江戸図にその名が見られることから架橋はそれ以前と考えられています。橋の形状は航行の妨げにならないように中央 に盛上りをもたせた半円状の太鼓橋で、北詰に川船番所が置かれていたことから“元番所 の橋”ともよばれました。当時は富士山のビュースポットの一つで、広重は『江戸名所百 景』、葛飾北斎は『富嶽三十六景』の中で巧みに橋と富士を配置した作品を残しています。

ここ深川は芭蕉が奥の細道行の前後に庵を結んだところで、川船番所跡北の路地にひっ そりと祀られている芭蕉稲荷神社はその庵跡の一つ、隅田川左岸には書簡や俳諧資料を展 示する芭蕉記念館、少し下流の合流点北岸は芭蕉庵史跡展望庭園で、芭蕉像が想いをめぐ らすように隅田川の流れを見降ろしています。

その流れはおだやかな小名木川を見続けてきた目にはずいぶん激しく映り、改めて暴れ 川だった隅田川のスケールを実感させられます。小名木川はここで終わりますが荷船はこ の先さらに進み、隅田川に揺られながら日本橋川に入ります。

小名木川沿いを歩いた印象 は身近な川というよりは水路、一直線に延びる流れはまさに人の手が入った運河としての 風景です。小名木川は大都市江戸の開発、発展を担った大事な歴史遺産、そして先人が当 時の技術を駆使して切り開いた土木遺産です。

高橋上から新小名木川水門
小名木川と隅田川の合流点、萬年橋下小名木川南岸より
隅田川対岸より萬年橋

⬇️ 江戸八百八町を支えた物資輸送の合い動脈 その一 新川

(下記写真をクリックしてください)

Screenshot