古来、霊験あらたかな神々が宿るとされる熊野の山。そこは人里離れた幽遠の地、道中険しく参詣には難行苦行を強いられますが、神々は「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」。その懐深くおおらかな信仰に、人々は切なる願いを託しました。

神仏集合して熊野の山々は浄土の世界に

紀伊半島南部に位置する熊野は山また山、幾重にも連なるその姿は「熊野三千六百峰」といわれ、末端は海岸近くにまで迫ります。気候は温暖、雨多く豊かな森を育み、険しい谷を刻んで神秘に満ちた幽邃境を形成しています。古来、このような自然がつくりだした奇岩怪石、滝などには神が宿るとされ、奈良時代以降修行の地とされていました。

ここ熊野には古くから本宮、新宮、那智の地に、それぞれ熊野坐神、熊野速玉神、熊野牟須美神が鎮座していました。本来は別々の神とされていたこれらは平安中期以降、一体と見なされて各社ともこの3神を奉るようになり、熊野三山、熊野三所権現というようになりました。そして当時流行した浄土思想と融合して、熊野信仰の形態ができあがりました。

それは3神の本来の姿は仏とする本地垂迹説に基づき、坐神は阿弥陀如来、速玉神は薬師如来、牟須美神は千手観音で、それぞれ仮の姿で現れたとされました。3神が浄土思想で説明されることで阿弥陀仏は極楽浄土の中心仏なので本宮は西方浄土、新宮は東方瑠璃浄土、那智は観音菩薩の住む補陀落浄土に擬せられ、熊野全域が浄土の地と見なされました。

天皇・貴族の熊野詣は国家衰亡の元?

熊野詣の初例は10世紀初めの宇多法皇によるもので、以後、11~12世紀にかけて法皇や上皇の参詣が相次ぎました。やがて準国家的行事と化し、後白河院などはほぼ1年に1回のペースで34回、後鳥羽院は10か月に1回のペースで28回を数えました。

流行は周辺の女院や貴族の間にも広がり、彼らは「人真似の熊野詣」と揶揄されながらも競うように参詣を繰り返しました。これほど彼らを熱中させた理由は、回数が多いほど救われると説く修験者の勧めでした。

法皇や女院の参詣ともなると、身の回りの世話をする者や警護の者がついて大人数になるため、課役を命ぜられる沿道住民の負担は大変なものでした。1118年の白河院の参詣では人足814人、伝馬185頭に食料などが徴発され、1212年の後鳥羽院の参詣では1日あたり米20石の供出を余儀なくされています。

このような度重なる参詣に苦言を呈したのは、関白藤原忠実や歌人藤原定家でした。特に定家は、熊野詣は国家衰亡の元と言って後鳥羽院を非難し、あるときは公家たちがこぞって熊野に出掛けてしまい、禁中に人気がなくなるほどだったと、その過熱ぶりを日記で嘆じています。

武士により全国各地に熊野の神々が祀られた

参詣の作法は、出発前に数日間精進潔斎し、道中では祓、水垢離や海辺での潮垢離を繰り返し、要所要所に勧請されている王子といわれる分社ごとに幣を奉り、経を読み、舞や神楽を奉納するというもので、先達を務める修験者の指導で行われました。

鎌倉時代には将軍や執権たちの参詣はなく、北条政子の2回の参詣が記録に残されています。これが武家女性として最初の参詣ですが、作法などは貴族の先例に倣ったようです。

承久の乱以降は、皇族に代わり地方武士の参詣が盛んになりました。武士たちの参詣は一度ならず二度、三度という例も少なくなく、中には毎年欠かさない者さえいました。遠方では、東北から往復70余日の長旅の末に念願を果たした例も見られます。彼らの多くは帰郷後、領内に熊野の神を勧請(神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること)して安泰を願いました。

室町時代には庶民の参詣が盛んになり、その賑わう様子は「蟻の熊野詣」という言葉で語られています。ここ熊野では女性はもちろん、どのような立場の人でも分け隔てなく受け入れました。病気平癒の霊力をもつとも考えられ、健康祈願の参詣も頻繁でした。

浄土の世界を目指す悠久の旅路へ

庶民の参詣を可能にした要因として、貨幣経済の浸透、交通路や宿舎の整備などが挙げられます。貨幣を使えることで以前のように食糧から防寒具など一切合切を背負う必要はなく、その都度購入すればよいので身軽な旅ができるようになりました。

社会的弱者には、沿道住民の手助けがありました。困っている参詣者に手を差し伸べることも熊野の神々への功徳と考えられたことから、歩けない小栗判官を土車(土を運ぶ二輪車)に乗せてみんなで運ぶ『をぐり』のような物語も生まれました。

近世に入ると熊野詣は衰退し、幕府からの寄付で貨付業に転じて三山を維持した時代もありました。参詣道は熊野信仰の盛衰によって荒れた時期もありましたが、近年文化庁の「歴史の道」に指定されて以後整備され、その後の世界遺産登録もあって再び注目されるようになりました。

人々はなぜ熊野を目指したのか、それは浄土の世界への願望であり、一方では熊野を現実の浄土と見なした現世利益を求める信仰です。熊野とは奥まった遠い地の意、そこに至るひと筋の古道は今なお奥深い神秘の森に昔日の姿をとどめています。